
軍人皇帝時代のローマ皇帝たちは、暗殺や病気など、ことごとく予期せぬ形で命を落としました。その中でも際立って不運なのが、ペルシア遠征の最中に落雷に打たれて死んだカルスです。
サーサーン朝を撃破した皇帝
ローマには「五つの屈辱的な敗北」があると言われます。
第一は、紀元前390年頃、ガリア人によってローマ市の半ばまで占領された出来事です。ローマは「第二の建国者」と称されるカミッルスの手によって失地を回復しました。
第二は、紀元前321年のサムニウム戦争における「カウディウムの屈辱」です。槍の下をくぐって降伏を強いられたこの恥も、最終的にサムニウム戦争に勝利することで帳消しとなりました。
第三は、第二次ポエニ戦争中の紀元前216年、カンナエの戦いでの壊滅的敗北です。ハンニバルに大打撃を負いましたが、最終的にはスキピオ・アフリカヌスがハンニバルを打ち破っています。
第四は、三頭政治の時代におけるクラッススの敗北です。相手はペルシアの覇者・パルティア帝国でした。
そして第五は、3世紀後半のウァレリアヌス帝の捕縛です。相手は同じくペルシアの覇者であるサーサーン朝でした。
つまりローマは、東方の大国ペルシアに対しては長らく報復を果たせずにいたのです。サーサーン朝をここまで打ち破ったカルスなら、もう少し高く評価されてもよさそうなものですが、彼はペルシア侵攻の最中に落雷という大いなる不運に見舞われて命を落としました。
ローマではギリシャと同様、主神が雷霆の神ユピテルであったため、落雷に打たれることはまさに神罰だと見なされたのです。
マルクス・アウレリウス・カルス
カルスはガリア地方の都市ナルボの出身で、先帝プロブスの時代に近衛隊長官を務めていたことが知られています。プロブスは自らの兵士たちの手で暗殺されましたが、カルスがこの陰謀に関与していたかどうかは定かではありません。無関係だった可能性の方が高いものの、彼がすでにプロブス帝への忠誠心を失いつつあったことは確かなようです。
皇帝に即位したカルスは、自らを「マルクス・アウレリウス・カルス」と名乗りました。かつての賢帝マルクス・アウレリウスにならい、元老院を重視する政治を行うと宣言しましたが、それは軍事力を背景とする権力の体裁を整えるための見せかけにすぎなかったとも言われています。
ペルシア遠征と落雷による死
プロブス帝の路線を引き継いだカルスは、ペルシアへ軍を進めました。このとき長男カリヌスと次男ヌメリアヌスを共同皇帝に任命しており、ペルシア遠征は連戦連勝で順調に進んでいきました。
当時のサーサーン朝はローマ以上に内紛と混乱の時期にあり、カルスはローマが失っていたメソポタミア地方の奪回に成功します。さらにサーサーン朝の首都クテシフォンへ進軍してこれを占領し、サーサーン朝の滅亡も目前と思われました。ところが、冒頭に述べたとおり、カルスはキャンプ中に落雷に打たれて急死してしまうのです。
その後、後継者たちもまた相次いで非業の死を遂げましたが、やがてディオクレティアヌスが台頭し、ローマに新たな安定と光がもたらされることになります。ただ、それはまだ少し先の話でした。