
水は、地球上の生命を維持するうえで最も貴重な資源の一つである。古代の人々はこの真理を熟知しており、敵からこの貴重な水を奪うこと、さらには水そのものを武器として用いることさえ厭わなかった。
古代の「水への毒入れ」の手法
その論理は単純明快だった。攻撃を受けた側の軍隊であれ、包囲された都市の住民全員であれ、水は絶対に必要なものだ。もし飲み水が使えなくなれば、いずれの場合でも深刻な危機に陥る。
水に毒を混ぜる方法は数多く存在した。最も一般的だったのは、毒草や毒キノコを使うこと。もう一つは、井戸に動物の死骸を投げ込む方法である。
後者の方法は流れる水には向かないが、井戸や貯水槽に対しては極めて効果的だった。毒草はしばしば煮出され、その汁が水に注がれた。ただし毒を持続的に効かせるには、定期的に新たな毒を補充しなければならなかった。
言うまでもなく、毒に汚染された水は畑の灌漑にも使えず、土壌そのものまで汚してしまう。
第一次神聖戦争と都市キラへの聖戦
その痛ましい実例こそ、現在のイテア近郊にあったフォキス地方の港町キラである。紀元前590年頃、キラの住民はデルフォイの神託所の領地を侵略した。直ちにアンフィクティオニア(近隣諸国同盟)の会議は、この不敬虔な者たちに対して聖戦、いわゆる第一次神聖戦争を宣言したのである。
アテナイとシキュオンが同盟の先頭に立った。同盟軍はデルフォイの神官団により、この都市を地上から抹消し、畑も果樹も根こそぎ破壊すると誓わされた。デルフォイの神官たちは「アポロンが不敬虔な都市に呪いを下した」と宣告した。その土地は二度と実りをもたらさず、女たちの子は奇形となって生まれるだろう、と。
隠された水道と毒入りの水
神が慈悲を見せない以上、同盟軍も容赦してはならない――そういうことだった。実際、クレイステネスとエウリュロコス率いる同盟軍はキラを包囲した。しかし攻城兵器を欠き、山がちな地形にも阻まれ、包囲戦は思うように進まなかった。
ところが、同盟軍はある隠された水道管を発見する。それは隣接する泉から市内へ水を送るものだった。彼らは即座にパイプを破壊し、水の供給を断ち切った。
数日後、渇きに苦しむ包囲された側は水道を修理し、再び水が市内に流れ始めた。だが包囲された人々にとって不幸なことに、その水には有毒植物ヘレボルスが仕込まれていたのである。住民は次々と病に倒れ、都市は抵抗らしい抵抗も受けることなく陥落した。勝利の後、同盟軍はキラの畑に毒入りの水を撒いたとも伝えられる。木々も草木も枯れ果て、それだけでは済まなかった。
740年経っても消えなかった「呪い」
旅行家パウサニアスがこの地を訪れたのは、実に740年後のことだが、それでもなお土壌は毒されていたという。「キラ周辺の平野は耕作されていない。土地は今なお呪われており、住民は木を植えることができない」とパウサニアスは記している。彼はこの水への毒入れの計画を、賢明なアテナイの立法者ソロンの仕業だと伝えている。
繰り返された水の毒入れ
この種の総力戦は、クセルクセス率いるペルシア軍に対しても用いられた。都市を侵略者の意のままに残して逃れたアテナイ人は、泉・井戸・貯水槽に毒を盛ることを怠らなかった。その後、ペロポネソス戦争中には、アテナイ人は紀元前430年にアテナイを襲った大飢饉は、スパルタ人が水に投げ込んだ毒のせいだと非難した。もっとも、この告発には根拠がなかった。
一部の研究者は、アテナイのシケリア遠征の際、シュラクサイ側も河川や泉の水に毒を入れていたと推測している。ただしこの見解は、いかなる古代の史料によっても裏付けられていない。
一方、シュラクサイ人自身は、紀元前397年のカルタゴ軍による大攻撃の際、自都市周辺のいくつかの水源に毒を入れたようである。さらに紀元前4世紀半ばには、戦術家アイネイアスが攻城作戦における水への毒物使用について言及しており、この手法が古代世界で広く知られていたことがうかがえる。