
1919年5月、ギリシャ軍は小アジア西岸の主要都市スミルナ(現イズミル)に上陸した。第一次世界大戦後のパリ講和会議における連合国の決定に基づく進駐であったが、ここで武装したトルコ人勢力との最初の衝突が発生し、その後数年にわたる希土戦争(1919〜1922年)の予兆となった。やがて情勢は一時的に落ち着きを見せ、ギリシャ軍は支配地域を徐々に拡大していった。
古代都市ペルガモンへの進駐
スミルナの北約90キロには、ゼウスの大祭壇などで名高い古代ギリシャの都市ペルガモン(現ベルガマ)が位置していた。ギリシャ行政当局はこの街を支配下に置くことを決定し、5月30日、第1/8クレタ歩兵大隊が市内に進駐した。同部隊は機関銃小隊3個、山砲部隊1個、そして約60名の騎兵半個中隊によって増強されていた。
大隊の先遣部隊は、補給拠点となるペルガモンの港ディケリ方面まで前進した。しかしトルコ側は即座に反応した。市の行政長官は「ペルガモンはギリシャに与えられた地域の外にある」として、ギリシャ軍の「占領」に抗議したのである。
防御配置と6月2日の総攻撃
ギリシャ部隊はこの抗議を無視した。シルマケジス中佐は部下を市周辺の高地と、カイコス川(現在のバクルチャイ川)の橋梁付近に防御的に配置した。この橋はペルガモンとスミルナを結ぶ街道が通る要衝であった。
シルマケジスは2個半の中隊、機関銃小隊、砲兵を市街地一帯に展開させた。ところが6月2日、オマル・ケマル・ベイ率いる正規軍・非正規軍混成の強力なトルコ部隊が、あらゆる方向からギリシャ軍へ攻撃を仕掛けたのである。トルコ軍はさらに、補給品輸送のためディケリへ向かっていた輸送隊と、橋の守備隊にも攻撃を加えた。
夜間撤退とパニック
渡し守と橋の守備兵は虐殺され、ペルガモンの守備隊も圧倒された。ギリシャ大隊は午後まで戦い続けたが、押し込まれる形で最大の防御拠点であった旧ペルガモンの丘(アクロポリス)を失った。
これを受けてシルマケジスは、撤退以外に道はないと判断した。支隊は夜陰に乗じて退却することになり、退却行動は21時に開始された。しかしギリシャ兵が立てる物音によりトルコ側は動きを察知し、直ちに攻撃を仕掛けてきた。
パニックが発生した。装備のほぼすべてが放棄され、支隊の将兵は無秩序に敗走し、翌日の夕方、ペルガモンから約80キロ離れたメネメニにようやく到着した。損害は甚大であった。戦死10名、負傷9名に加え、実に86名が「行方不明」となったのである。この「行方不明者」こそが最も悲惨な運命を辿った。彼らは生きたまま敵の手に落ちたのだ。
6月7日、目撃した凄惨な光景
6月7日、激戦の末にギリシャ軍はペルガモンを奪回した。しかし彼らがそこで目にしたのは、絶対的な恐怖の光景であった。「行方不明」となっていた戦友たちは遺体となって発見され、腹を割かれ、性器を切り取られて口に詰め込まれ、あるいは足に蹄鉄を打ち込まれていたのである……
教訓とその後
ヘレニズムの小アジア進出が決して順風満帆には始まらなかったこと、そして敵が狂信的かつ断固たる意志を持っていることは明白であった。トルコの脅威に対処するためには、新たな戦術的・戦略的アプローチが必要とされた。しかし当時のギリシャ指導部は、過酷だが必要な強硬策を講じる決断を下すことができなかった。
この最初の敗北は、後の悲劇を予感させるものだった。ギリシャ軍は最終的に1922年、スミルナからの壊滅的な撤退と共に小アジアから駆逐されることになる。ペルガモンの戦いは、その長く苦い歴史の第一頁に刻まれた出来事なのである。