ヨーロッパの歴史

ヴェニゼロスがケマル・アタテュルクをノーベル平和賞へ…歴史に残る悲劇的な推薦

ヴェニゼロスがケマル・アタテュルクをノーベル平和賞へ…歴史に残る悲劇的な推薦

エレフテリオス・ヴェニゼロスは、近代ギリシャ史上最も偉大な人物の一人として名を刻んでいます。間違いなく祖国のために生涯を捧げて戦いましたが、歴史を行動する者すべてに共通することながら、彼自身も致命的な過ちを犯しています。

その一つが「国家分裂(ナショナル・シズム)」と呼ばれる国内対立への関与です。この分裂はギリシャに長年にわたる深い爪痕を残し、1922年の小アジア惨事(カタストロフィー)の大きな原因ともされました。

1934年、衝撃のノーベル平和賞推薦

そしてヴェニゼロスの人生において最も不運な瞬間の一つとして挙げられるのが、1934年、当時「ギリシャ人の虐殺者」と呼ばれたムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)をノーベル平和賞に推薦した出来事です。

ヴェニゼロスがノーベル賞委員会に宛てて送った推薦書簡は、近年になってトルコ側によって発見されました。半世紀以上の時を経て、これを政治的に利用しようとする思惑がうかがえます。しかしこの書簡で最も物議を醸しているのは、次の一節です。

「1922年、ムスタファ・ケマル・パシャの国民運動が対立者(すなわちギリシャ人)に勝利したとき、トルコ共和国の樹立は、この不安定と不寛容の状態に確固たる終止符を打った」

この推薦状に署名した瞬間、ヴェニゼロスは自らの手で、イオニアおよびポントス地方のギリシャ人に対する大量虐殺の歴史を消し去ってしまったことになります。大量虐虐殺の責任者をノーベル平和賞候補として推すことが、いかに可能だったのでしょうか。これは、幾重もの過ちの連鎖を完成させる形となった、ヴェニゼロスにとって重大な誤りでした。

推薦書簡の全文

以下に、書簡の全文を紹介します。


「アテネ、1934年1月12日

委員長 殿

およそ7世紀にわたり、中東全域と中央ヨーロッパの広範な地域は、血なまぐさい戦争の舞台であり続けました。その主因はオスマン帝国と、スルタンの専制体制にありました。キリスト教諸民族の隷属、そこに必然的に続いた十字架と三日月の宗教戦争、そして解放を求めたこれら諸民族の相次ぐ反乱は、オスマン帝国がスルタンたちの遺した痕跡を保持し続ける限り、恒久的な危険の火種となり続ける状況を生み出してきました。

1922年、ムスタファ・ケマル・パシャの国民運動が対立者(すなわちギリシャ人)に勝利したときのトルコ共和国の樹立は、この不安定と不寛容の状態に終止符を打ったのです。

実際、一民族の歴史において、これほど短い期間にこれほど急進的な変化が成し遂げられた例はまれです。法と宗教の概念が混同された神政体制の下で衰退していた帝国は、エネルギーと生命力に満ちた国民的かつ近代的な国家へと生まれ変わりました。偉大なる改革者ムスタファ・ケマルの推進力によってスルタンの専制体制は打倒され、国家は真に世俗的なものとなりました。国民全体が進歩へと目を向け、文明諸国の先陣に加わるという正当な野心を抱くようになったのです。

しかし、平和の定着に向けたこの動きは、新生トルコに今日の姿を与えた一連の内政改革と歩調を合わせて進んできました。トルコは他民族が居住する諸州の喪失を率直に受け入れ、条約によって定められた国境に真に満足し、近東における平和の真の支柱となったのです。

我々ギリシャ人は、何世紀にもわたる流血の闘争の中でトルコと絶えず競合してきた者として、旧オスマン帝国の後継国家であるこの国の深い変化がもたらす成果を、誰よりも早く実感する立場にあります。

小アジア惨事の翌日から、我々は国民国家として戦火の中から再生した新しいトルコとの相互理解の可能性を見据え、手を差し伸べました。トルコはそれを誠意をもって受け入れたのです。この接近は、いかに深刻な相違で隔てられた民族同士であっても、平和への誠実な意志を持つならば理解し合えることの模範となり得るものであり、関係両国にとっても、近東の平和維持にとっても、良いことのみをもたらしました。

この平和への貴重な貢献をもたらした人物こそ、ほかならぬトルコ共和国大統領、ムスタファ・ケマル・パシャであります。ゆえに私は、1930年の希土協定締結が中東の平和への道程における新時代を開いた際のギリシャ政府首相として、ムスタファ・ケマル・パシャをノーベル平和賞に推薦する栄誉を有する次第です。

敬具
E.K. ヴェニゼロス」


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写真出典:トルコのニュース

歴史が残した問い

1930年の希土協定は、両国の国交正常化と住民交換後の関係改善を象徴する出来事であり、ヴェニゼロスの現実外交の帰結でもありました。しかし、小アジア惨事やポントス・ギリシャ人虐殺といった未曾有の悲劇を経験した直後に、その中心人物を平和の象徴として讃えるという判断は、当時のギリシャ社会に大きな衝撃と疑念を投げかけました。

この書簡は、政治的和解と歴史的正義の間で揺れる指導者の葛藤、そして国家の利益と記憶の保存の難しさを今に伝える、極めて示唆的な歴史資料と言えるでしょう。