ペルシャとの決戦の地としてサラミスを選んだのは、偶然ではなく、古代ギリシャ人が現地の気象条件を深く理解していたことによる「完璧に研究された選択」だった――。アテネ科学アカデミー大気物理学・気候学研究センターが、クリストス・ゼレフォス教授の主宰のもとで実施した最新研究が、この事実を科学的に裏付けました。研究成果は国際学術誌『Atmosphere』に掲載されています。
2500年前の戦いを、現代の科学が解き明かす
2022年9月、サラミスの海戦からちょうど2500年の節目を迎えました。紀元前480年9月末、テミストクレス率いるギリシャ艦隊は、数で劣りながらも卓越した戦術によって、歴史上最も決定的な勝利の一つを収めました。
今回の研究が明らかにしたのは、この偉大な指導者の戦略が「インスピレーション」だけではなく、古代ギリシャ人とテミストクレス自身がサラミス海峡に吹く風の気候特性を熟知し、その日変化を味方につけるよう作戦計画を立てていたという点です。
夜の北西風と昼の海風が作った「挟み撃ち」
科学的分析によれば、夜間に吹く北西風と、午前10時以降に発生する海風が組み合わさることで、一日の進行とともにペルシャ艦隊をサラミスで包囲する「風の挟み撃ち(パンチ)」が形成されていたことが分かりました。
この気候学的な風の場の分析は、当地域の気象観測所による観測データに加え、1960年から2019年までの期間を対象としたERA5およびWRFという気候・気象モデルのデータに基づいています。さらに、ヘロドトスの『歴史』やアイスキュロスの『ペルシア人』といった古代史料の記録も照合されました。
2500年前も今も、風は同じように吹く
研究結果によると、現在この地域で見られる気象条件は、2500年前のそれとほぼ同じであることが確認されました。暖候期にエーゲ海で北方から吹く季節風「メルテミ(エテシア)」の主な原因は、インド半島周辺に形成される熱的低気圧(モンスーン低気圧)と、夏にバルカン半島や中央ヨーロッパを覆う高気圧の組み合わせです。
この組み合わせにより、エーゲ海上には強化された北寄りの気流が生まれます。「エテシア」という名は「毎年繰り返される」という意味を持ちます。実は、この気象現象について最初に記述したのはアリストテレスで、著書『気象論(メテオロロギカ)』の中で触れられています。そして9月に入ると風が弱まるため、海風のような小規模な循環系が支配的になるのです。
テミストクレスの戦術――風を待つ撤退
ギリシャ軍は地域の気候特性を把握した上で、戦略計画を緻密に調整していました。ペルシャ艦隊は夜のうちにアッティカ沿岸(アンフィアリ・ペラマ)に戦闘配置につきました。しかし夜明けとともに、ペルシャ側が予想していた「逃走」ではなく、ギリシャ船団がサラミス側に整然と戦闘隊形を組んで現れたのです。
ペルシャ艦隊が攻撃に移ると、ギリシャ船は逆方向へ、隊形を保ったまま漕ぎ進んでサラミス海岸へと後退していきました。プルタルコスによれば、この機動こそがテミストクレスの戦略計画の一部であり、ペルシャ軍を海峡の奥深くへ誘い込み、戦闘開始を遅らせて「風向きが変わるのを待つ」ためのものだったといいます。そして午前10時過ぎ、風は南西の海風へと転じ、ここで初めてギリシャ軍の反撃が始まったのです。
風と狭い海峡がペルシャ艦隊を崩壊させた
海風と海峡の狭さが相まって、ペルシャ艦隊は大混乱に陥りました。背の高いペルシャ船は操縦が難しく、風と波で横倒しに流されたため、ギリシャ三段櫂船(トリエレース)の衝角(ラム)の格好的な標的となりました。さらに、強い南東風のためにペルシャ船は帆を張ることができず、サロニコス湾の外洋へ退いてそこで決戦を行うこともできなかったのです。
結局、ペルシャ艦隊の大部分が失われ、残存船団は夕方、風が一日の循環を終えて再び北西に転じた頃合いを見てファリロン湾へと逃れました。ヘロドトスによれば、西風「ゼピュロス」がペルシャ艦隊の残骸を現在のアギオス・コスマス一帯へ運び、地中海におけるペルシャ勢力の終焉を告げたといいます。
研究チームについて
研究チームには、クリストス・ゼレフォス氏のほか、アテネ科学アカデミーのスタヴロス・ソロモス氏、ヨアニス・カプソメナキス氏、クリストス・レパピ氏、そしてテッサロニキ・アリストテレス大学のディミトリス・メラ氏が参加しました。本研究は、環境科学のためのマリオプロス・カナギニオ財団の助成を受けて実施されました。
出典:APE-ME(アテネ・マケドニア通信)