ヨーロッパの歴史

1941年メタクス線の死闘:ギリシャ英雄2個大隊、圧倒的なドイツ装甲軍に最後まで抗戦

1941年メタクス線の死闘:ギリシャ英雄2個大隊、圧倒的なドイツ装甲軍に最後まで抗戦

1941年4月、ナチス・ドイツはユーゴスラビアとギリシャへ侵攻し(マリータ作戦)、バルカン半島の運命は一気に動き出した。その先頭に立たされたのが、ギリシャ北部のブルガリア国境に築かれた要塞線「メタクス線」である。

40kmを5個大隊で守る、絶望的な防衛線

当時、ギリシャ第XVIII歩兵師団はメタクス線の最左翼を担当していた。しかし、その戦力はわずか5個大隊。全長40kmに及ぶ防衛線を守りながら、予備兵力はたった1個中隊しかなかった。師団の担当区域には、イスティベイ、ケルカギア、アルパルーキ、パリウリオネスといった要塞群も含まれていた。

師団は戦力を3つの地区に分割配置した。その左翼にあたるのが、ルーカス・キッツォス中佐が指揮するロドポリス地区である。ここには第II/70歩兵大隊と第II/91歩兵大隊、65mm山砲4門と85mm砲2門、37mm対戦車砲1門からなる山岳砲兵隊が配されていた。だが、この地区の責任区域内には要塞が一つも存在しなかった。

1941年4月6日 午前5時15分、ドイツ軍の攻撃開始

ドイツ軍の攻撃は、1941年4月6日午前5時15分に第XVIII師団の正面で始まった。ロドポリス地区では、主抵抗線がベレス稜線に沿って展開しており、キッツォス中佐は第II/70大隊を左翼に、第II/91大隊を右翼に配置した。前者はコンスタンティノス・ヤクミス少佐が、後者はスティリアノス・カロナス少佐がそれぞれ指揮を執った。

特筆すべきは第II/91大第II/91大隊の窮状である。歩兵2個中隊、81mm迫撃砲4門、機関銃8丁、37mm対戦車砲1門というわずかな戦力で、ブルガリア国境沿いの前哨線において実に6kmもの正面幅を担っていたのである。周辺には7基のコンクリート製砲座があったものの、大隊の自動火器は第一次世界大戦世代の旧式ショーシャM1915軽機関銃という有様だった。

全滅した哨戒拠点162

第II/70大隊の正面も同様に手薄だった。このような条件下で、ギリシャ軍の第一線はたちまち突破され、午前7時までに哨戒拠点162を除いて放棄された。

拠点162にはマルーディス少尉と17名の兵士が残っていた。この勇敢な少数の兵たちは、まもなく圧倒的に優勢なドイツ軍に包囲された。それでも彼らは孤立無援のまま、数時間にわたり戦い続けた。降伏はしなかった。そして最後の一人まで、全員が戦死したのである。

1個小隊対1個大隊の死闘

戦闘は続いた。丘1079では、ギリシャ軍わずか1個小ずか1個小隊がドイツ軍1個大隊と交戦した。彼らは文字通り英雄のように戦い、3時間の戦闘の末、大多数が死傷して初めて降伏した。

さらに第II/70大隊長ヤクミス少佐は、2個小隊と1個戦闘団、機関銃4丁、迫撃砲2門をまとめて丘1120に集結させることに成功した。そこで少数のギリシャ兵たちは激しく抵抗し、ついには反撃さえ敢行した。しかし間もなく、彼らはドイツ軍の砲撃と迫撃砲火によって次々と薙ぎ払われていった。

第II/91大隊の崩壊

第II/91大隊の正面でも経過はほぼ同じだった。第XVIII師団は唯一の予備中隊をもって増援を送ろうとしたが、ドイツ軍の猛烈な射撃のため失敗に終わった。前述の通り、大隊は小隊規模の陣地によって6kmの正面を守っており、実際には連続した戦線など存在せず、主要な高地に設けられた抵抗点があるだけだった。

丘1521の支援拠点は午前7時まで持ちこたえた。一方、丘1488の支援拠点の前では、ドイツ軍は足止めを食らっている。大隊防御線の中央に位置する「古小隊」の支援拠点では、ギリシャ兵たちが激しく、しかし報われない戦いを繰り広げ、午前10時30分まで持ち堪えた。これを受けて地区司令官は第II/91大隊に対し丘989への後退を命じ、命令は午後2時頃に実行された。

通信手段を欠いた師団は、状況を正確に把握できていなかった。ようやく情報が入ると、師団はロドポリス地区に対しクルシア地点への後退を命じた。第II/91大隊は後退に成功したが、もはや以前の姿の影すらなかった。51名の戦死者と150名の負傷者を戦場に残しての撤退だった。

丘1120の最期、そしてP9・P8機関銃座の伝説

一方の第II/70大隊――正確にはその残存兵力――は包囲されながらも、丘1120で戦い続けた。ヤクミス少佐率いる小部隊のうち、無傷のまま捕虜となったのはわずか4名。他の兵士は、少佐自身のように戦死するか、負傷するかのどちらかだった。

より広く知られているのが、P9およびP8機関銃座の奮戦である。P9は午後7時30分まで防衛を続け、弾薬が尽きて初めて降伏した。P8では、ギリシャ史上最も栄光ある頁の一つが綴られた。その主人公はディミトリオス・インゾ軍曹である。この機関銃座は午後4時まで防衛を続け、弾薬不足のため降伏したが、ドイツ軍に甚大な損害を与え続けていた。

ドイツ軍指揮官はギリシャ人軍曹を称賛した。そして直後、あらゆる戦争法の概念に反して、彼を殺害したのである。

テルモピュライの再来

これは、最初から勝利の見込みがない戦いの初日だった。午後6時、第XVIII師団はロドポリス地区とのすべての連絡を失った。もはやその地区は存在していなかったのだ。戦いの続きは、クルシアの地で描かれることになる。

ギリシャ人たちは、蛮族が越えてくることを知っていた。テルモピュライの戦いでそうであったように、コンスタンティノープル陥落で、そして独立戦争のアラマナの戦いでそうであったように、彼らは退かなかった。敗北が最初から約束された戦いに身を投じ、最後の一兵まで戦い抜いたのである。