ヨーロッパの歴史

イギリスとフランスはなぜポーランド侵攻までドイツとの対決を避けたのか?

「イギリスとフランスはポーランド侵攻までドイツとの対決を拒否していた」という見方は、必ずしも正確ではありません。両国は1930年代からナチス・ドイツの拡張主義に強い警戒感を抱いており、同盟の構築や再軍備といった抑止策を講じてきました。ただし、全面対決を避ける「綏靖政策」を採っていた時期があったのも事実です。

1930年代からの警戒と再軍備

ヒトラー政権の成立(1933年)以降、ドイツはヴェルサイユ条約の軍事制限を一方的に破棄し、ラインラントの再占領(1936年)、オーストリア併合(1938年)など、次々と強硬な行動に出ました。イギリスとフランスはこれらの動きを重大な脅威とみなし、フランスはマジノ線の整備を進め、イギリスも航空機の増産などを中心に再軍備を本格化させました。

綏靖政策――戦争回避の試み

第一次世界大戦の惨禍が記憶に新しい当時、両国の世論は再びの大規模な戦争に強く反対していました。このため、ミュンヘン会談(1938年)でチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲をドイツに認めるなど、譲歩によって戦争を回避しようとする姿勢が見られました。しかし、この政策はかえってドイツの要求を膨らませる結果となり、失敗に終わります。

ポーランドへの保証と開戦

1939年3月、ドイツがチェコスロバキアを解体すると、イギリスとフランスは方針を転換し、ポーランドの独立を保障する姿勢を明確にしました。そして同年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、両国は9月3日にドイツへ宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発しました。

まとめ

つまり、イギリスとフランスはポーランド侵攻までドイツを完全に無視していたわけではなく、警戒と抑止の準備を進めつつ、戦争の回避を優先していた時期があったといえます。ポーランド侵攻は、綏靖政策の限界が露呈した瞬間であり、両国が武力対決の道を選んだ歴史的な転換点となったのです。