「カナダのテムズ川の戦い」という名称の戦闘は、歴史上存在しません。お探しになっているのは、1813年10月5日にオンタリオ州(当時はアッパー・カナダ)で行われたテムズの戦い(Battle of the Thames)、別名モラヴィアンタウンの戦いではないでしょうか。以下では、この戦いの概要と死者数について詳しく解説します。
テムズの戦いとはどんな戦い?
テムズの戦いは、米英戦争(1812年戦争)中の重要な陸上戦闘の一つです。ウィリアム・ヘンリー・ハリソン率いるアメリカ軍が、ヘンリー・プロクター将軍指揮下のイギリス軍、およびショーニー族の偉大な指導者テカムセ率いる先住民連合軍を破りました。戦場となったのは、現在のオンタリオ州チャタム近郊にあるモラヴィアンタウン(デラウェア族の宣教師集落)付近です。
死者数はどのくらいだったのか
正確な死傷者数は史料によって幅がありますが、一般的には次のように伝えられています。
イギリス軍の損害
約450名の正規兵からなるイギリス軍は、アメリカ軍の騎兵突撃を受けて瞬く間に崩壊しました。死者はおよそ12名〜27名、負傷者約30名、そして残りの大部分が捕虜となり、600名前後が降伏したとされます。
アメリカ軍の損害
圧倒的な勝利を収めたアメリカ軍の損害は軽微で、死者は7名〜15名程度、負傷者も20名前後に留まりました。
先住民部隊の損害
先住民側の犠牲者数は記録が乏しく、正確な把握は困難です。しかし最大の損失は何よりもテカムセ自身の戦死でした。彼はこの戦いで命を落とし、享年45歳前後とされています。なお、テカムセを討ち取った人物として、後にアメリカ合衆国副大統領となるリチャード・メンター・ジョンソンの名が挙げられていますが、その真偽については今なお議論があります。
この戦いの歴史的意義
テムズの戦いでの勝利により、アメリカは北西部(現在の中西部)における主導権を確立しました。一方で、テカムセの死は彼が築き上げた先住民連合の崩壊を意味し、先住民族による統一抵抗運動は大きな転換点を迎えることになりました。さらに、この戦いでの功績はハリソンの政治的キャリアを大きく押し上げ、1840年の大統領選挙での勝利につながったとも言われています。
まとめ:「テムズ川の戦い」という名称の戦闘は存在せず、正しくは1813年の「テムズの戦い」です。死者数は、イギリス軍が約12〜27名、アメリカ軍が約7〜15名、先住民側は不明ながら、テカムセの戦死が最大の損失となりました。