ヨーロッパの歴史

1939年9月1日以前、連合国はいかにしてドイツの侵略を阻止しようとしたのか?

第二次世界大戦の開戦以前、イギリスやフランスを中心とする連合国側は、外交・政治的手段を通じてドイツの拡張主義を抑え込もうとしました。しかし、その試みの多くは不十分であり、結果として1939年9月1日のポーランド侵攻、すなわち第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできませんでした。以下に、当時行われた主な取り組みとその限界を解説します。

1. ヴェルサイユ条約による制約

第一次世界大戦後、ドイツにはヴェルサイユ条約が課されました。この条約により、ドイツは大幅な領土喪失、莫大な賠償金の支払い、軍備の厳しい制限を受け入れることになりました。しかし、ナチス政権の成立後、ヒトラーはこれらの規定を次々と破り、再軍備を進めていきました。

2. 不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)

1928年、ドイツを含む各国はケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)に署名し、国際紛争の解決手段としての戦争放棄を宣言しました。しかしこの条約には強制力がなく、違反に対する制裁措置も定められていませんでした。

3. 対独宥和政策

1930年代、イギリスやフランスは戦争を回避するため、ドイツに譲歩を重ねる宥和政策を採用しました。その代表例が1938年のミュンヘン会談です。この会談で、チェンバレン英首相らはチェコスロバキアのズデーテン地方のドイツへの割譲を認めましたが、これは結果的にヒトラーの野心をさらに刺激することとなりました。

4. スペイン内戦への不干渉

1936年に始まったスペイン内戦では、イギリスやフランスなど欧州諸国が不干渉協定に調印しました。しかし、ドイツやイタリアはフランコ将軍率いる国民派を支援しており、この政策は結果的にファシズム勢力を利する形となりました。

5. 国際連盟の無力さ

第一次世界大戦後に設立された国際連盟は、国際協力の促進と紛争の防止を目的としていましたが、強制力のある執行機構を欠いていました。ドイツは1933年に連盟を脱退し、その後の侵略的行動や領土要求に対して、連盟は効果的に対処することができませんでした。

6. ヴェルサイユ条約履行の怠慢

ドイツの再軍備やラインラント進駐といった条約違反が明らかになっても、連合国は実質的な制裁や軍事介入を行いませんでした。この対応の遅れは、ヒトラーの冒険主義をさらに助長する結果となりました。

7. 集団安全保障の欠如

国際連盟には強力な執行メカニズムがなく、各国もドイツに対する集団的行動に消極的でした。第一次世界大戦の惨禍を記憶する世論が再びの戦争を強く嫌悪していたことも、決定的な対応を妨げる一因となりました。

8. チェンバレンの宥和政策

イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは、ドイツへの譲歩によって平和を維持できると信じ、宥和政策を推し進めました。「我々の時代の平和」と謳われたミュンヘン協定はその集大成でしたが、翌1939年3月にドイツがチェコスロバキア全土を併合すると、この政策は完全に破綻しました。

9. 独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)

1939年8月23日、ドイツとソ連は不可侵条約を締結しました。この条約により、ソ連がドイツのポーランド侵攻に介入しないことが確定し、ポーランドは東西から挟撃される危機に直面することになりました。

結論

外交交渉、宥和政策、不干渉など、さまざまな試みがなされたものの、ドイツの侵略的政策に対して強固な集団的行動を起こせなかったことが、1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻、ひいては第二次世界大戦の勃発につながりました。この時期の対応は、今日でも「集団安全保障の失敗」の歴史的教訓として語り継がれています。