ハンブルク観光の定番となっているアルスター蒸気船の遊覧クルーズ。夕暮れクルーズから運河やフリート(運河網)巡り、フィアランデやアルスター周遊まで、そのラインナップは多彩です。「白い船団」は今やハンブルクのランドマークの一つとなっています。
しかし、何もかもがスピード化を求められる現代では想像しがたいことですが、1859年から1984年までの125年間、アルスターの船はこのハンザ都市で日常的な通勤交通手段として親しまれてきました。30年以上の空白を経て、いまハンブルクでは近い将来のカムバックをめぐる議論が始まっています。キリスト教民主同盟(CDU)がアルスター定期航路の再開を提言したのです。「渋滞の中でのうるさいバスの騒音や苛立ちではなく、アルスターでの航行を」——これが野党の主張です。
最初のアルスター蒸気船「アリーナ」、1859年に就航
アルスターに定期蒸気船航路を開設するというアイデアを最初に思いついたのは、保険仲介人のグスタフ・アドルフ・ドレーゲでした。数年に及ぶ審査を経て、1856年に元老院から営業許可を取得します。ドレーゲは当初ライン川の船を導入する予定でしたが、外輪蒸気船「シュタット・ミュールハイム」が1857年、ライン川からエルベ川への回航中に漏水事故を起こしてしまいます。こうして1859年6月15日、ハンブルクの船舶仲立人ヨハン・ペーター・パラウ所有のスクリュー蒸気船「アリーナ」が、アルスター航行の幕開けを飾ることになりました。ハンブルクのライアーシュティーク造船所で建造されたこの蒸気船は、ユングフェルンシュティークからミューレンカンプ、エッペンドルフへの定期航路の運行を開始しました。
その後、ウーレンホルスター渡船場とハルヴェステフーデ渡船堤防を結ぶ連絡航路など、他の事業者も加わります。これらは1860年にパラウと合併し、統一された時刻表と均一運賃体系を持つ輸送連合を形成。渡し船を共同で利用しました。蒸気船は10分または20分間隔で運行されていました。1877年には船が初めてアイルベク運河へ乗り入れ、1890年からはアイルベクのフォン・エッセン通りまで運行されるようになります。当時、実業家オットー・ヴィヒマンがアルスター船団全体の唯一の所有者でした。この時代、最大の競合相手は馬車鉄道でした。
全盛期には年間1100万人の利用者
20世紀初頭、アルスター定期航路の全盛期には約30隻の蒸気船がアルスターで運航されていました。1911年には約1100万人の乗客を運び、夜間でも30分間隔で運行されていたほどです。船が真っ白な塗装をまとめたのは早くも1902年のことで、この年が「白い船団」の誕生の年とされています。
1919年、第一次世界大戦の終結後、ハンブルク高架鉄道株式会社(Hamburger Hochbahn AG)がハンブルクの交通独占権を取得し、アルスター蒸気船会社(Alsterdampfschiffahrts-GmbH)の買収も義務付けられました。蒸気船37隻、はしけ5隻、艀4隻が保有されていましたが、その運営は当初採算が取れませんでした。インフレの只中にあった1920年代半ば、高架鉄道はアルスター航路を曳船会社リュトゲンス&ライマースに貸し出します。同社は1924年から市立公園への航路を含む新しいサービスを開始。旧船団から改修した14隻に加え、港のはしけも投入されました。
1920年代、乗客数の減少
しかし1920年代、路面電車、バス、地下鉄路線の登場により、低速な蒸気船の乗客数は減少していきます。この10年間は年間約600万人が蒸気船を利用していましたが、その10年後には400万人を割り込みます。1935年には高架鉄道が運営を再び引き継ぎ、1939年までに10隻のディーゼル船を就役させ、ヴィンターフーデ・フェールハウス、ミューレンカンプ、そしてアイルベク運河経由でフォン・エッセン通りへの3路線で運行しました。これらの船の一部は今日も現役で航行しています。
第二次世界大戦による中断
第二次世界大戦中、アルスターの船は運航を停止しました。それでも一部の船は爆撃を受けて破壊されています。戦争終結後の1946年、運航が再開されました。ただし、バルムベック南方面への航路は、同地区がほぼ完全に破壊されたため、当面は再開されませんでした。
1965年、HVVへの統合
1950年代には約340万人がこのサービスを利用しました。しかし、アルスター蒸気船はもはや全盛期の乗客数には届きません。1965年にハンブルク交通連合(HVV)が設立されると、アルスターの船の運航もこれに統合されます。それでも乗客数は減り続けました。地下鉄、路面電車、バスの方がはるかに速く目的地へ乗客を運べたからです。
サービス縮小が招くさらなる乗客減
アルスター蒸気船保存会(Alster Dampfschiffahrt e.V.)会長のマティアス・クルーゼ氏によれば、統計を見ると乗客数の減少はサービス制限の直接的な結果でもあったといいます。「1974年に冬季休止期間が導入されたことで、アルスター定期航路はハンブルクの公共交通網全体における恒常的な機能を失いました。夏季限定の運行は、必然的に観光目的の利用が中心にならざるを得ません」とクルーゼ氏は語ります。「さらに1975年末の53番線ユングフェルンシュティーク〜ムンツブルク橋の廃止も、もう一つのサービス制限でした」
133万マルクの赤字で1984年に終焉
1974年と1975年には180万人を数えたアルスター定期航路の乗客数は、1976年から1981年にかけて130万〜150万人に減少しました。残った51番線と52番線で20分間隔の運行が廃止されると、1982年の乗客数は100万人に落ち込みます。1983年には赤字削減のため、通常運賃に加えてHVVの急行バス割増料金が上乗せされました。定期航路の利用者はわずか69万人。年間の運営赤字は133万マルクに膨れ上がりました。こうして1984年2月7日、ハンブルク元老院はアルスターの定期航路の廃止を決定したのです。以降はアルスター・ツーリスティック社の「アルスター・クルーズ」が引き継ぎ、同社は今日もかつての桟橋を利用し続けています。
アルスターで観光需要が拡大
定期便の乗客数が減少する一方で、アルスター船の観光利用率は着実に増加していきました。1950年代には夜のランタン付きナイトクルーズが人気を博しました。1956年からはコーヒークルーズが、8年後の1964年からは朝のビールクルーズや運河クルーズがアルスター航路の補完として提供されるようになります。1977年からは、日帰り遠足、周遊クルーズ、観光商品への段階的な重点移行が始まりました。
現在は2つの事業者が多数のクルーズを運航
今日、ユングフェルンシュティークからは2つの事業者がアルスター遊覧船を出航させています。アルスター・ツーリスティック社は年365日アルスターで運航しており、多彩なクルーズを提供しています。18隻の船団は平均して毎年40万人の乗客をアルスターに運んでいます。また、アルスター蒸気船保存会(Alsterdampfschiffahrt e.V.)は、歴史的な蒸気船「聖ゲオルク号(St. Georg)」による遊覧を毎年3月末から12月末まで実施しています。