ベンジャミン・フランクリンが「五分の三妥協(3/5 Compromise)」を気に入ったのかどうかを考える前に、まず一つの誤解を解いておきましょう。「この妥協はフランクリンの死から10年以上経って成立したため、彼は関与できなかった」という説明が広く流布していますが、これは史実と異なります。
フランクリンは1787年の憲法制定会議に出席していた
五分の三妥協が合意されたのは、1787年5月から9月にかけてフィラデルフィアで開催された憲法制定会議です。当時81歳だったフランクリンは、ペンシルベニア代表として会議に出席した最年長の代議員でした。彼は最後まで議論に関わり続け、1787年9月17日には完成した合衆国憲法に署名しています。フランクリンが亡くなったのはそれから約2年半後の1790年4月17日です。つまり、彼は妥協の成立に十分間に合う形で深く関わっていたのです。
五分の三妥協とはどのような取り決めか
五分の三妥協とは、奴隷状態に置かれた人々を人口算定上「5人を3人」として数えることで、北部諸州と南部諸州の対立を調整した妥協案です。南部は奴隷人口も議席配分に反映させて政治的な発言力を強めようとし、北部は奴隷を課税対象として数えることを求めました。この対立の着地点として生まれたのが、人口の5分の3のみを議員配分と税負担の両方に算入するという方案でした。
では、フランクリンはこの妥協を支持したのか?
残念ながら、フランクリンが五分の三妥協そのものについてどう感じていたかを直接示す発言や文書は確認されていません。しかし、以下の事実から彼の姿勢を推し量ることができます。
- フランクリンは晩年、奴隷制廃止の熱心な支持者となり、1787年にはペンシルベニア奴隷制廃止協会の会長に就任していました。
- 一方で彼は「妥協の名手」として知られ、国家の結束のためには不完全な案でも受け入れるべきだと繰り返し訴えてきました。
- 会議の閉幕時に述べた有名な最終演説でも、自らの意見に反する部分があったとしても、憲法への全員一致の賛同と署名を呼びかけています。
これらを踏まえると、フランクリンは個人としては奴隷制に批判的だったものの、連邦国家を成立させるために不可欠な取引として五分の三妥協を受け入れ、憲法全体を支持したと見るのが自然です。「心から気に入っていた」かどうかは記録に残っていませんが、少なくとも彼はこの妥協を拒否して憲法制定の道を閉ざす選択はしませんでした。
まとめ
「フランクリンは妥協成立時にはすでに亡くなっていた」という説明は誤りです。彼は1787年の憲法制定会議にペンシルベニア代表として参加し、妥協の目撃者であると同時に憲法への署名者でもありました。奴隷制には個人的に反対しながらも、国家統一を最優先して妥協を受け入れた――これが史実に基づく答えと言えるでしょう。