ナポレオンによるスペイン王位簒奪の経緯
1808年、ナポレオン・ボナパルトはスペインのブルボン朝に圧力をかけ、カルロス4世とその息子フェルナンド7世の双方に退位を強要しました(いわゆる「バイヨンヌの退位」)。そして王座に据えたのは、他ならぬナポレオン自身の弟ジョゼフ・ボナパルト(在位1808年~1813年、スペイン名ホセ1世)でした。
つまり、スペイン王を置き換えたのは「フランス人王」ではなく、ナポレオンの実弟だったのです。この点はしばしば誤解されがちですが、歴史的事実としては明確です。
ラテンアメリカでの反応――クリオージョとペニンスラレス
当時のスペイン領ラテンアメリカには、主に二つの白人層が存在しました。
- ペニンスラレス: スペイン本国から派遣された官僚や聖職者など。植民地行政の要職を独占していた層。
- クリオージョ: 現地生まれのスペイン系住民。経済力を持つ者が多かった一方、社会的・政治的に差別されていた層。
フランスによる王位簒奪の知らせが届くと、これら両層の大多数はスペイン王室への忠誠を保ち、フランスの侵略に断固として反対しました。彼らにとって正統な君主はあくまで追放されたフェルナンド7世であり、ジョゼフ・ボナパルトの即位は不当な簒奪にほかなりませんでした。
忠誠派による組織的な抵抗
各都市では「ヘンタ(評議会)」が次々と結成され、フェルナンド7世の名のもとで統治を行う動きが広がりました。こうした評議会は当初、正統王政が復帰するまでの一時的な統治機関として設立されたものです。
独立派クリオージョの台頭
一方で、一部のクリオージョはこの混乱を好機と捉えました。本国の混迷こそ、長年抱えてきた不満――ペニンスラレスとの格差、貿易制限、政治からの排除――を打破する絶好の機会だったからです。彼らはフランス侵攻がもたらした権力の空白を巧みに利用し、独立運動を開始していきました。
ラテンアメリカ独立運動への波及
1810年以降、リオ・デ・ラ・プラタ(アルゼンチン)、ヌエバ・グラナダ(コロンビア)、メキシコ、チリなど各地で蜂起や独立宣言が相次ぎました。シモン・ボリバルやホセ・デ・サン=マルティンらの指導の下、1820年代には南米大陸の大部分が独立を達成することになります。
こうして見ると、ナポレオンのスペイン侵攻は、結果としてラテンアメリカ独立の引き金となったといえます。ただしその出発点は「フランス人王への反発」そのものではなく、正統なスペイン王への忠誠と、混乱に乗じたクリオージョの政治的野心が複合したものであった点に留意が必要です。