古代の歴史

アルジェリア独立の日――1962年7月5日の独立宣言とその背景

アルジェリア独立の日――1962年7月5日の独立宣言とその背景アルジェリアの独立は、1962年7月5日に宣言されました。これは約8年間に及ぶ激しい紛争、そして何より1世紀を超える植民地支配の終焉を意味する出来事でした。1962年3月19日のエビアン協定によって戦闘は終結し、7月1日の国民投票でアルジェリアは独立を選択。その後、大多数のヨーロッパ系住民が国を去っていきました。長い間「戦争」という名でさえ呼ばれることのなかったアルジェリア戦争は、地中海の両岸の人々に深い傷跡を残し、その影響は今日にまで及んでいます。独立そのもの、そして独立がもたらされた過程もまた、現在のアルジェリアの姿を形作る要因となりました。

アルジェリアにおける7年間の戦争

アルジェリアは1830年以来、フランス帝国の植民地でした。第二次世界大戦後、独立の要求はフランス政府に対して次第に強まりましたが、フランス側は独立という考えを一切受け入れようとしませんでした。フランスがチュニジアとモロッコの問題解決に取り組んでいたさなかの1954年11月1日、アルジェリアの情勢は急激に悪化します。アーメド・ベン・ベラらによって recently 創設された民族解放戦線(FLN)が、8人の死者を出す一連の攻撃を組織したのです。この「赤い諸聖人の日(トゥッサン・ルージュ)」の攻撃はアルジェリア反乱の幕開けとなり、まもなくコンスタンティーヌ地方とカビリア全域へと拡大しました。フランス政府は即座に軍の増援を送り、弾圧策を講じ、ジャック・スーステルが総督に任命されます。独立を求める声とフランス連合への残留という主張は相容れず、アルジェリアは攻撃と弾圧の泥沼へと沈んでいったのです。

アルジェリア独立の日――1962年7月5日の独立宣言とその背景この全面戦争への傾斜は、1955年5月のメンデス・フランス首相の辞任につながりました。いわゆる「平定作戦」は多面的な性格を持っていました。専門行政部(SAS)の将校たちの監督の下、民政当局から長年見放されてきたアルジェリア住民を保護し、教育し、雇用し、医療ケアを提供する大規模な取り組みが行われる一方で、徴集兵たちは農村地帯のパトロールに従事し、反乱軍への外部からの補給を断つため、モロッコ・チュニジア国境に電気柵(シャルル・ライン)の建設が進められました。その一方で、軍は容赦のない掃討作戦、住民のキャンプへの強制移住、容疑者の「集中的な」尋問を実行しました。完全に圧倒された民政当局はあらゆる形態の弾圧を容認するようになり、1956年10月22日には、アーメド・ベン・ベラを含むFLN指導者たちが搭乗していたモロッコ発チュニジア行きの旅客機を、一部の軍指導者が強制的に着陸させるという事件さえ容認される事態となりました。

1957年初頭、フランス軍は紛争に大規模に介入し、「アルジェの戦い」ではFLNの組織網を無力化するために拷問を辞さなかったとされています。フランス本国では、アルジェにおける反乱状態に閣僚危機が重なり、ド・ゴール将軍の政権復帰につながりました。アルジェリア問題について曖昧な姿勢をとっていたド・ゴールは、1959年9月に民族自決のプロセスへの道を開き、1961年1月8日の国民投票によってこれを正式化します。そして5月20日、エビアンにおいてFLNとの交渉が開始されたのです。

エビアン協定とアルジェリアの独立

アルジェリア独立の日――1962年7月5日の独立宣言とその背景アルジェリア戦争の実際の終結時期をめぐっては、今日でも議論が続いています。フランスでは、1962年3月18日に署名されたエビアン協定と、それに続く停戦(決して完全なものではありませんでしたが)が戦争の終結を画するものとされています。しかし、この交渉の正当性はフランス側とアルジェリア側の双方で争われ、情勢は再び悪化しました。アルジェリアのフランス系住民(ピエ・ノワール)は国を去り始め、秘密軍事組織(OAS)は焦土作戦を実施し、フランス側に協力したアルジェリア人(ハーキ)は見捨てられ、独立派のアルジェリア人たちは勝利を目前にしながらも内部分裂を深めていきました。

エビアン協定に署名したアルジェリア側の代表者たちは、すでに前年からのFLNとMNA(アルジェリア民族運動)の対立によって分裂していた民族主義運動の中で、決して一枚岩ではありませんでした。1962年5月〜6月のトリポリ会議は、最終的な合意に達したものの、FLNを内部から蝕んでいた対立を露呈させる結果となりました。FLNはエビアン協定に署名したアルジェリア共和国臨時政府(GPRA)に対して主導権を獲得しましたが、それでも派閥間の実質的な内戦は収まりませんでした。情勢がようやく安定したのは、ブーメディエンヌとベン・ベラの同盟によって、1962年9月のことでした。

アルジェリア独立の日――1962年7月5日の独立宣言とその背景その間、アルジェリア人同士の緊張やOASのテロ行為にもかかわらず、1962年7月1日にアルジェリアで国民投票が実施され、独立への「賛成」が99%を超える圧倒的な多数で可決されました。結果は7月3日にド・ゴール将軍によって承認され、2日後の1962年7月5日に独立が宣言されました。この日付は象徴的な意味を持ちます。アルジェリア植民地化の始まりは、一般的に1830年7月5日のアルジェ占領に結びつけられているからです。国中で民衆の歓喜が沸き起こり、人々は独立と暴力の終焉を祝いました。「7年間で十分だ!」という声が上がりましたが、8月末にはナショナリスト間の武力衝突が再燃し、9月のブーメディエンヌとベン・ベラによる合意を待って、ようやく収束することとなったのです。

1962年7月5日:オランの虐殺

この平和と独立を取り巻く特異な状況を物語る出来事として、アルジェリアの人々が自由を手にしたその日に、オランで100人を超える人々が虐殺されました。さらに、その後数週間で全員が発見されなかった数千人規模の行方不明者も出ています。アルジェリア人の群衆がヨーロッパ人地区に達した際に発砲が発生し(OASによる挑発だったとする見方もあります)、まだ残留していたフランス人を狙った狩りが始まりました。フランス軍は介入せず、生存者たちは拷問、略奪、誘拐の場面を目撃・体験したと証言しています。

アルジェリア独立の日――1962年7月5日の独立宣言とその背景翌日、FLNが事態の収拾にあたり、7月12日にはベン・ベラがオランに入りました。この種の事件ではよくあることですが(1945年5月8日のセティフとグレマの虐殺も同様です)、最終的な犠牲者数は情報源によって大きく異なり、100人超から、当日以降の多数の行方不明者を含めて数千人に及ぶとされます。いずれにせよ、オランの虐殺は、アルジェリアからフランス本国へのフランス系住民の脱出を一層加速させることとなりました。

この出来事は、この紛争における他の同種の悲劇(たとえば1961年10月17日のパリ事件が長い間そうであったように)と同様に、しばしば歴史の影に隠されてきました。しかし、独立が達成された過程の異常さ、そして地中海の両岸の人々にもたらされた痛ましい結果を象徴する出来事です。FLNは勝利の後、国の再建に取り組まなければなりませんでしたが、歴史と記憶をめぐる長い作業は始まったばかりで、アルジェリア独立から50年が経過しても、なお終わりからは程遠いものでした。

参考文献

- B.ストラ『アルジェリア戦争の歴史』La Découverte、2004年。

- S.テノー『アルジェリア:「事件」から戦争へ――アルジェリア独立戦争をめぐる通念の検証』Le Cavalier Bleu、2012年。

- ジャン=ジャック・ジョルディ『アルジェリア:戦争から独立へ 1957-1962』Editions Ouest-France、2012年。