紀元前44年3月15日、ユリウス・カエサルは元老院議員たちの一団の手によって暗殺されました。この事件はローマ史における重大な転換点となり、やがて帝政ローマの誕生へとつながっていくことになります。
暗殺から4か月後、ローマの空に現れた「光」
その4か月後の7月20日から23日にかけて、ローマではルディ・ウィクトリアエ・カエサリス(Ludi Victoriae Caesaris)と呼ばれる祭典が開催されていました。この祭典は、カエサル自身が紀元前46年に制定したものです。歴史家スエトニウスによれば、祭典が始まろうとしていた夕暮れ時(古代ローマでいう「第十一時」頃)、ローマの北東の空に一つの彗星が出現し、7日間にわたって輝き続けたといいます。当時の人々は、これをカエサルの魂そのものであると確信しました。

ローマ人たちはこの異例の天文現象を、ユリウス・カエサルが神格化された――すなわち神の座に昇った――証しと受け取りました。こうして世代から世代へと語り継がれた記憶により、この彗星は古代世界で最も有名な彗星となったのです。
歴史上最も明るい昼間彗星の可能性
それも無理はありません。近年の研究によれば、この彗星は有史以来の記録の中で、おそらく最も明るかった「昼間彗星(日中でも観測できた彗星)」だった可能性があります。さらに、絶対等級がマイナスの値を持つことが知られている、わずか5つの彗星の一つでもあります。その絶対等級は−3程度だったと推定されています(地球と太陽の双方から1天文単位の距離で観測した場合のみかけの明るさ)。比較のため述べると、もし−4等級に達していたなら、金星そのものと同等の印象的な輝きを放っていたことになります。
中国やギリシャの記録にも残る大彗星
この彗星を記録しているのはローマの史料だけではありません。ギリシャや中国の文献にもその姿が刻まれています。中国では、歴史家の班固による記録が、紀元前44年5月30日、近日点(太陽への最接近)通過時のものとして残されています。近日点距離は約3,300万キロメートル(0.22天文単位)で、空には大きな光り輝く尾が描かれていました。
6月10日以降、彗星の光度は次第に弱まり、まず+1等級まで減光し、7月20日には+5等級まで暗くなりました。このため、ローマで目撃された姿は、中国で観測された大きな尾を持つ彗星とは異なり、恒星のような小さな光の点に近いものだったと考えられています。
「ユリウスの星」――詩人たちが歌った天体
多くの古代の著述家たちは、この彗星をシドゥス・ユリウム(Sidus Iulium:ユリウスの星)、あるいはカエサリス・アストルム(Caesaris astrum:カエサルの星)と呼びました。詩人ホラティウスは紀元前24年に書いた頌歌の中でこの名を使用しています。またウェルギリウスは、カエサル暗殺直後の時期について触れながら、「カエサルの星が現れ、野を明るく照らした」「恐ろしい彗星がこれほどしばしば燃え上がったことはなかった」と詩んでいます。
アウグストゥスの政治宣伝としての利用
アウグストゥス(オクタウィアヌス)は、この出来事を自らの政治的キャリアのために巧みに利用しました。紀元前42年、彼はカエサルに捧げる神殿の建設に着手します。これは後に「彗星の神殿」として知られるようになり、そこには巨大なユリウス・カエサル像が据えられました。スエトニウスやオウィディウスの記述によれば、その像の額には燃え立つような彗星が飾られていたといいます。
紀元77年には、大プリニウスが『博物誌』の中で次のように書き残しています。
「人々の間では、この彗星はカエサルの魂が不死の神々の列に迎え入れられたことを告げるものだと信じられていた」
今も宇宙を旅し続けるのか?――軌道の謎
カエサルの彗星が現在も存在しているのか、それとも歴史のどこかで崩壊してしまったのかは分かっていません。その軌道が周期性を持たないためです。最近の軌道計算によれば、もし今日も存在しているなら、放物線軌道に沿って太陽から800天文単位以上、つまり約1,190億キロメートルも彼方に位置しているはずだと言われています。そして、およそ1万年ごとに太陽系へ戻ってくると推定されています。天文学上の正式名称はC/-43 K1です。
ただし、カリフォルニア大学のロバート・ガーヴァル氏や、ハーバード大学天体物理学センターのブライアン・G・マースデン氏など一部の研究者は、カエサルの彗星の存在そのもの、ひいては紀元前44年に出現したという記録についても、依然として未解決の問題であると指摘しています。