古代の歴史

アテナイ最後の陶片追放——ヒュペルボルス、自ら仕掛けた制度に葬られた男

陶片追放(オストラシズム)——民主主義を守るために生まれた制度

紀元前510年から508年にかけて、クレイステネスはアテナイに民主政を打ち立てました。事実上、彼こそが民主主義という仕組みを「発明」した人物だと言えます。しかし彼にはもう一つ、重大な懸念がありました。それは、僭主が再び権力を握る事態をどう防ぐかという問題です。

その答えとして誕生したのが「陶片追放(オストラキスモス)」と呼ばれる法律でした。この制度のもとでは、その言動が民主制や人民主権の存続にとって危険あるいは有害だと見なされた市民を、国外追放に処することが認められていたのです。

投票のしくみ

手続きは毎年1月から2月頃にかけて行われました。まず民会が「陶片追放を実施するか否か」を投票で決定します。ここで賛成となれば、およそ2ヶ月後に再び集会が開かれ、有権者6,000人以上という定足数を満たしていれば、各市民がオストラコン(陶器の破片)に「追放すべき人物の名」を書き込みます。

最多票を獲得して絶対多数に達した市民は、10年間の国外追放を科され、遅くとも10日以内に市を去らねばなりませんでした。とはいえ市民権そのものは失われず、財産も没収されません。さらに新たな投票によって赦免される可能性もあり、実際に何度か赦された例が記録されています。

アテナイ最後の陶片追放——ヒュペルボルス、自ら仕掛けた制度に葬られた男

民主主義の盾から派閥闘争の武器へ

しかし、ありがちな話ですが、当初は民主主義を守るための道具だったこの制度は、やがて政治勢力間の攻撃手段へと変質していきます。初めて発動されたのは紀元前487年、僭主ペイシストラトス(紀元前561〜527年にアテナイを支配)の親族ヒッパルコスの追放でした。

紀元前487年から440年の間に実施された追放は、記録されているだけで12件に及びます。クレイステネス自身の甥メガクレス(前486年)、同じく甥とみられるカリクセノス(前485年)、のちのペリクレスの父クサンティッポス(前484年)、「正義の人」と称えられたアリスティデス(前482年)、サラミスの海戦でギリシア軍を率いた名将テミストクレス(前471年)、マラトンの戦いの英雄ミルティアデスの子キモン(前461年)、後世により有名な同名の孫を持つアルキビアデス(前460年)、メノン(前457年)、祭司の姿でマラトンに参戦したカリアス(前445年)、音楽家にしてペリクレスの師ダモン(前443年)、そしてペリクレスの政敵トゥキュディデス(前442年)です。

アテナイ最後の陶片追放——ヒュペルボルス、自ら仕掛けた制度に葬られた男

紀元前442年以降、陶片追放は急速に廃れていきます。6,000人の定足数を満たすことが次第に困難になり、政敵の排除には、より穏当で迅速な法的手段が好まれるようになりました。しかも年に一件に限らず、同時に複数の訴追さえ可能な方法です。

ところが26年後、この眠っていた制度が最後にもう一度だけ動くことになります。舞台は紀元前416年。そしてその犠牲者となった人物の顛末は、まさに「自業自得」の言葉がふさわしいものでした。

油ランプ職人から政界へ——ヒュペルボルスという男

彼の名はヒュペルボルス。油ランプの製造業者でした。ペロポネソス戦争第一段階の後、スパルタとの講和に反対して政界に進出し、頭角を現します。喜劇作家アリストファネスは彼を「アテナイの民会を思いのままに操る男」として作品に描き、彼に言及する多くの作家たちも「大衆の指導者」という表現で語りました。ただしその筆致には、あきらかな皮肉と侮蔑がにじんでいます。

雄弁な弁舌家であり、おそらく三段櫂船の艦長(トリエラルコス、つまり自費で軍船を装備する富裕層の公職)も務めた資産家である一方、史料の多くは彼を「扇動政治家(デマゴーグ)」と非難しています。彼はアテナイ二大政治勢力の一方を率いる座を望んでいましたが、その道を塞いだのがアルキビアデスでした。

アテナイ最後の陶片追放——ヒュペルボルス、自ら仕掛けた制度に葬られた男

失策——政敵二人を一網打尽に狙う

そこでヒュペルボルスは一計を案じます。古い陶片追放を復活させ、アルキビアデスともう一人の政敵ニキアスを一度に葬り去ろうというのです。歴史学者ドナルド・ケーガンはこう説明します。「直前の四半世紀、この刑罰は誰に対しても用いられなかった。その代償――10年の追放――があまりに重く、確固たる多数派を持つ者だけが、この極端な措置を味方につけられると確信できたからだ。ペリクレスの時代以降、それほどの信頼を勝ち得たアテナイの政治家は存在しなかった」と。

ニキアスとアルキビアデスの支持はほぼ互角でした。ヒュペルボルスは、両者の追放を提案すれば漁夫の利を得られると踏んだのです。プルタルコスによれば、彼は「片方が追放されれば、残った一方の対抗馬になれる」と期待していたといいます。こうして彼は、長く忘れられていた制度の復活をアテナイの人々に受け入れさせたのでした。

裏目に出た計画

しかしヒュペルボルスの読みは完全に外れます。ニキアスとアルキビアデスは意外にも手を結び、それぞれの支持者たちに「陶片にはヒュペルボルスの名を書け」と指示したのです。

結果、追放されたのは仕掛け人自身でした。この異例の展開――民会の有力部分の支持を欠いたまま追放されたという事実――は、陶片追放という制度の限界を白日の下に晒しました。政敵排除の道具として機能するのは、指導者たちが一致団結して潰し合いを避ける場合だけだったからです。実際、そのすぐ後、アテナイ人はニキアスとアルキビアデスをふたたび将軍(ストラテゴス)に選出しています。

アテナイ最後の陶片追放——ヒュペルボルス、自ら仕掛けた制度に葬られた男

サモス島での最期と制度の終焉

サモス島へ追放されたヒュペルボルスは、寡頭派の反乱に伴う騒擾の中でサモス人たちの手にかかり、命を落としました。歴史に名を刻んだのは、トゥキュディデスが与えた悪評ばかりだったといいます。

こうして陶片追放がアテナイで実際に行使されることは二度とありませんでした。制度自体は存続し、毎年民会で実施の是非が問われ続けましたが、ふたたび賛成票が投じられることはなかったのです。なお、アゴラやケラメイコス地区からは、民会の投票時に書き込まれた名前の入ったオストラコンが1万2千点近くも出土しており、当時の熾烈な政治闘争の熱気を今に伝えています。