第二次世界大戦は「情報戦」でもあった
第二次世界大戦は、資源や領土をめぐる争いであると同時に、情報が極めて重要な役割を果たした戦争でもありました。交戦国のすべてが諜報活動と防諜作戦に深く関わっていたのです。
なかでも最も重要な要素の一つが天気予報でした。天候は海軍・空軍の作戦条件を直接左右し、輸送船団を隠す手段にもなり得れば、爆撃の視界を決める要因にもなるからです。
連合国の優位とドイツ軍の苦悩
この分野で連合国はある程度有利でした。開戦初期から北米、グリーンランド、アイスランドに広範な気象観測網を展開しており、ドイツよりもはるかに精度の高い予報を実現していたのです。

そこでドイツ軍は、特殊改造した航空機や艦船、潜水艦を投入し、通常の手段では入手できない気象情報の収集に乗り出しました。しかし北大西洋でのこうした任務は危険が伴い、多くの艦船や潜水艦が連合軍に発見・撃沈されるなど、割に合わないものでした。彼らは早急に、敵と同等の情報を得る方法が必要だと悟ります。ただしそのためには、北米大陸に観測所を設置する必要がありました。
自動気象観測装置「WFL」の開発
この難題を担ったのがシーメンス社です。同社は、電波によって3時間ごとにデータを自動送信できる気象観測所を開発しました。「Wetter-Funkgerät Land(WFL)」と名付けられたこの装置は26基が製造され、うち14基がグリーンランドを含む北極圏・亜北極圏に設置されました。さらに5基はバレンツ海沿岸へ、そして2基はなんと北米大陸へと送られることになったのです。
いずれの装置も専門的な計測システムを備え、風速計とテレメトリー装置を取り付けた2本のマストを有し、最大6か月間の稼働が可能な充電式ニッケル・カドミウム電池で駆動する仕組みでした。

潜水艦U-537による極秘設置作戦
北米向けの観測所として正しく設置できたのは、わずか1基でした。これを運んだのはペーター・シュレーヴェ艦長率いる潜水艦U-537です。気象学者2名が同乗し、観測所の設置を担当しました。この航海はまさに多難で、氷山との衝突で対空砲を失い、さらに船体の損傷によって潜航不能に陥るという事態も発生しました。
1943年10月22日、そんな状態のままU-537はカナダ・ラブラドル地方の北岸に到達し、マーティン湾に停泊しました。沿岸を偵察してイヌイットの集落がないことを確認すると、彼らはハットン半島への気象観測所の設置に着手します。部品は潜水艦の甲板からゴムボートで運ばれました。

巧妙すぎる偽装工作
観測所には、実在しない架空の組織「カナダ気象局」のロゴが掲げられていました。さらに信憑性を高めるため、周囲にはアメリカ製タバコの空き箱がわざと散らばされ、万一この装置を発見した民間人を混乱させる工夫まで凝らされていたのです。ちなみに設置地点は当時ニューファンドランド自治領の一部であり、同地がカナダに正式に加盟したのは1949年のことでした。
28時間後、U-537は帰路につきます。ニューファンドランド島のグランドバンク沖では哨戒艇とカナダ軍の戦闘機数機に遭遇し、3度の攻撃を受けましたが、沈没は免れました。12月8日、70日間に及ぶ航海を終えてU-537はフランスのロリアン港へ帰還しました。その後、同艦はオランダ領東インドへ向かう途上で、アメリカ海軍の潜水艦フラウンダー(USS Flounder)によって撃沈されています。
忘れられた観>忘れられた観測所、そして劇的な再発見
一方、気象観測所のほうは幸運でした。終戦までドイツへ情報を送り続け、戦争の終結とともにそのまま放置されたのです。1977年、地形学者ピーター・ジョンソンがマーティン湾付近で調査中にこの装置を偶然発見しましたが、カナダ軍の旧施設だろうと考え、さほど重視しませんでした。
ほぼ同じ頃、会社史を執筆していたシーメンスの元技師フランツ・ゼーリンガーが、秘密気象観測所の存在を示す文書を発見し、カナダ政府に通報しました。
公式な発見は1981年、ドイツ軍が設置したその場所で実現することになります。観測所は解体された後、オタワのカナダ戦争博物館へ移送され、今日もそこでその姿を見ることができます。