古代の歴史

自艦の魚雷で沈没した潜水艦「タング」――海底55メートルから9名がモムゼン・ラングで脱出した奇跡

第二次世界大戦末期の1944年10月24日夜、台湾海峡で日本船団を攻撃中だったアメリカ潜水艦「USSタング(USS Tang)」が、自艦の発射した魚雷の誤作動により沈没した。円軌道を描いて戻ってきた魚雷が艦尾に命中し、乗組員の大半が犠牲となったが、9名が海底55メートルの墓場から「モムゼン・ラング」という脱出装置を使って生還を果たしたのである。

「タング」の輝かしい戦歴

「タング」はアメリカでよく知られた潜水艦だ。1951年の映画『潜水艦指令(原題:Submarine Command)』に登場(劇中では「タイガー・シャーク」という名)、ニューオーリンズの国立第二次世界大戦博物館ではデジタル再現展示もされている。カリフォルニアのメア・アイランド海軍造船所で建造され、1943年8月に進水。熱帯魚の一種から名付けられた「バラオ級」潜水艦で、先行する「ガトー級」の船殻を厚くして潜航深度を向上させた改良型だ。この改良は成功し、アメリカ海軍は同級を120隻も建造した。

全長99メートル、全幅8.3メートル、基準排水量1,470トン(水中2,040トン)。水上速力20.2ノット(約37.5km/h)、水中8.7ノット(約16km/h)。最大潜航深度180メートル。魚雷24本と甲板砲2門を装備していた。サンディエゴで約3週間の訓練後、真珠湾に配属され、リチャード・H・オケイン中佐(のち少将)が指揮を執った。オケインは巡洋艦「チェスター」、駆逐艦「プルート」勤務を経て潜水艦隊に転じ、名艦「ワフー」の乗組みでもあったベテランだ。

初哨から快進撃

1944年1月22日、初哨でカロリン諸島方面へ。日本船団を発見し、爆雷攻撃をかわして貨物船「暁天丸」を撃沈。2月22日には「福山丸」「山霜丸」、2日後の24日には「龍滝丸」「越前丸」を撃沈。26日には漏水修理のため帰投する直前、最後の魚雷で「長興丸」を仕留めた。

救助任務と第3哨の大戦果

3月16日、ミッドウェーで整備後、パラオ・ダバオ湾方面へ第2哨。今回は攻撃ではなく、トラック環礁(チューク)付近で撃墜された航空機の搭乗員救助に従事。観測水上機「ヴォート OS2U キングフィッシャー」と協力し、22名を救出してハワイへ送り届けた。

6月8日、第3哨で東シナ海へ。2週間後、大型船6隻に護衛16隻という大船団と遭遇。複数の魚雷を発射し、「玉宝丸」「台南丸」「那須山丸」「建日丸」の4隻を撃沈。同月30日には単独航行の兵員輸送船「日錦丸」(兵3,000名以上乗船)を撃沈。翌朝は貨物船「大運丸」とタンカー「高取丸」を追跡・撃沈。さらに4日後、大連沖で「飛鳥山丸」を撃沈(生存者は地元漁師が救助)、同日午後に「山岡丸」(漂流者1名を救出)、翌夜「鳥居丸」を撃沈して任務を終えた。

第4哨・第5哨での更なる戦果

7月31日から9月3日、本州近海で第4哨。8月11日には貨物船「呂高丸」と同伴船を撃沈し、30分以上の爆雷攻撃を回避。同月には武装ヨット、哨戒艇「南察丸」、輸送船「筑紫丸」、タンカー「南光丸」を撃沈。日本海軍にとって脅威となりつつあった。

9月24日、真珠湾で休養・修理後、第5哨で台湾海峡へ。敵哨戒と機雷原を避けて侵入し、10月10夜に貨物船「常州号」「大分丸」を撃沈。そして13日後、運命の夜を迎える。

最後の戦いと自艦魚雷の悲劇

10月23日夜、「タング」はタンカー3隻、輸送船1隻、貨物船1隻、複数の護衛艦からなる大船団を攻撃。魚雷は命中したが、輸送船1隻が体当たりを仕掛けてきたため緊急回避。さらにタンカーの艦首も迫る絶体絶命の状況で、巧みな操艦で両敵艦を衝突させ、2本の魚雷で両方を撃沈。駆逐艦の接近をかわして離脱した。

翌朝、牛山島(福建省沖、台湾海峡北端)付近で新たな船団を発見。護衛艦が探照灯を点けて捜索を開始したため、逆に格好の標的となった。「タング」は大型輸送船、中型輸送船、タンカーに発射。タンカーは大爆発で護衛駆逐艦も巻き添えにし、大型輸送船は大破着底。さらに貨物船「江元丸」「松本丸」を撃沈。この夜までで「タング」の累計戦果は33隻、総トン数116,454トン。単一潜水艦・単一艦長としての記録を樹立し、「トートグ」「フラッシャー」を抜いてトップに立った。

マーク18魚雷の欠陥

午前2時30分頃、オケイン艦長は最後の1本となった魚雷の発射を命じた。それは「マーク18」電気式魚雷。1942年から製造され、航跡を残さない利点があったが、低速、頻繁な充電必要、低温でバッテリー性能低下などの問題を抱えていた。最悪なのは、先行する「マーク14」と同じ「目標に命中しなければ円軌道を描いて発射艦に戻る」という欠陥を持っていたことだ。1943年10月、「フライング・フィッシュ」がこれに遭遇し、辛うじて回避していた。

海底55メートルからの脱出

「タング」は運悪く、発射20秒後に自艦の艦尾に魚雷が命中。後部3区画が浸水し、水深55メートルの海底へ沈んだ。艦長以下ブリッジにいた9名は脱出できたが、前部魚雷室にいた30名は爆発で即死しなかったものの、閉じ込められた。

彼らには「エスケープ・トランク(脱出筒)」という脱出用区画があったが、日本駆逐艦の爆雷攻撃と蓄電池火災の消火のため、脱出は午前6時頃まで待たされた。

モムゼン・ラングによる浮上

乗組員たちは「モムゼン・ラング(Momsen Lung)」を装着して浮上を開始した。これはゴム製の袋に2本のチューブがついた個人用呼吸装置で、一方から吐いた二酸化炭素をソーダライムで除去し、もう一方から酸素を吸入する仕組みだ。水面では簡易ライフジャケットとしても機能する。

発明者は潜水艦乗りのチャールズ・モムゼン。1927年、ハッチに取り付ける救助ベルが軍の関心を得られなかったため、圧力平衡の原理で個人脱出を可能にするこの装置を考案した。1939年、S-4潜水艦沈没事故(ケープコッド沖、乗組員が3日間生存も救出不能)の教訓もあって正式採用された。同年、テスト潜航中に「スクエイラス」が74メートルで着底した際、この装置で59名中33名が救出された(同艦は後に「セイルフィッシュ」と改名し、戦線に復帰)。

生還者とその後

「タング」では、魚雷室から脱出した13名中5名、ブリッジにいた9名中3名が、8時間の漂流後に救助された。さらにブリッジのもう1名は、ズボンを膨らませて浮き袋代わりにして生き延びた。合計9名が日本海防艦「第34号海防艦」に救助されるが、同艦には「タング」が撃沈した船の遭難者・負傷者が多数乗船しており、待遇は厳しかった。

9名は鎌倉の大船捕虜収容所(海軍・情報要員専用)に収容された。独房監禁と拷問に近い尋問が行われ、赤十字の立ち入りも許されない過酷な場所だった。所長の横倉捷三大佐は戦後、戦犯として懲役25年を言い渡されている。大船は一時収容所であり、後に東京近郊の大森捕虜収容所へ移送された。ここも苛烈な所長・松井広(のち逃亡)の下で虐待が横行したが、オケインは「大船よりマシだった」と語っている。

戦後と遺産

オケインは帰国後、名誉勲章を受勲。複数の潜水艦で現役復帰し、少将まで昇進。1994年に肺炎で死去。現在は彼の名を冠した駆逐艦が就役している。

モムゼン・ラングは1962年までアメリカ海軍潜水艦に装備され、その後「スタインケ・フード」(気密フード付き膨張式ライフジャケット)に置き換わった。イギリス海軍は独自のDSEA(デイビス水中脱出装置)を使用し、現代ではSEIE(潜水艦脱出・浸水装備)という、水面で個人用ラフトになる全身スーツが採用されている。

「タング」は従軍星章4個と大統領部隊感状2個を受け、1945年2月8日に除籍された。今も台湾海峡の海底に静かに眠り、艦内に眠る乗組員たちと共に、海軍墓地として永遠の安息の地となっている。