19世紀後半、ドイツ統一によってドイツ連邦を構成していた公国や王国の領土的統合が実現し、ドイツ帝国が形成されました。
ドイツ統一は19世紀後半に起こり、現在のドイツに相当する地域を国民国家としてまとめ上げるプロセスでした。この過程を主導したのは、地域で最も工業化が進んでいたプロイセンです。ヴィルヘルム1世の指導のもと、オットー・フォン・ビスマルクが首相として一連の戦争を推し進め、ドイツの政治的・領土的な枠組みを確立していきました。
ドイツ統一の背景
19世紀後半の初頭、現在のドイツにあたる地域は、ウィーン会議以来の枠組みに基づく多数の小規模な王国や公国から構成されており、その多くはオーストリア帝国(1867年以降はオーストリア=ハンガリー帝国)の支配下に置かれていました。これらの国々は共通の文化的基盤を共有していましたが、国民国家として統一されてはいませんでした。
この地域には二つの覇権勢力が存在しました。ひとつはホーエンツォレルン家が治めるプロイセン王国で、地域で最も経済的に発展した国でした。もうひとつはハプスブルク家が支配するオーストリア帝国ですが、こちらは19世紀後半から明らかに衰退しつつある勢力でした。
19世紀初頭以降、ゲルマン系諸民族の統一を掲げるナショナリズム思想がこの地域で強まりました。1848年の自由主義革命の際には、この理想を支持する運動が各地で組織されましたが、目標の達成には至りませんでした。
地域統一の計画はプロイセンによって主導されました。プロイセンにとってこの計画は、自国の経済発展を保証する手段でもあったのです。プロイセンによる主導権は、ヴィルヘルム1世のプロイセン王即位と、オットー・フォン・ビスマルクの首相任命によって本格化しました。
プロイセンの要人としては、ヘルムート・フォン・モルトケも挙げられます。ヴィルヘルム1世とビスマルクは、プロイセンの経済発展と工業化を大々的に推進しました。さらにプロイセン軍の近代化を実施し、ヨーロッパ屈指の精鋭部隊へと作り上げていきました。
ドイツ統一は、ヨーロッパの主要国との三つの紛争を経て実現しました。まずデンマークと対峙したシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、次にオーストリアとの普墺戦争、そして最後に統一を確定させた普仏戦争です。
ドイツ統一戦争の経緯
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1864年)
プロイセンの近代化・工業化計画を実施した後、ビスマルクはデンマーク領の二つの公国――ホルシュタインとシュレースヴィヒ――の征服に乗り出しました。これらの地域に対するプロイセンの野心が、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争として知られる紛争につながりました。
この紛争は、1852年に調印された条約の項目をデンマークが遵守しなかったことを名目に、プロイセンがオーストリアと同盟して開始しました。この協定では、デンマークが両地域の自治を保証していました。ところが1863年に新憲法を公布すると、デンマーク王国は自治の範囲を縮小しました。これがプロイセンにとって格好の口実となり、1864年の公国侵攻へと発展しました。
普墺戦争(1866年)
二つの公国はプロイセンの手で速やかに征服されましたが、プロイセンとオーストリアによる共同占領をめぐって両国間に対立が生じ、まもなく1866年に新たな紛争――普墺戦争――が勃発しました。開戦直前、ビスマルクはフランスの中立的立場を外交的に確保しておきました。
普墺戦争は、近代化されたプロイセン軍が初めて本格的に軍事力を誇示した戦いとなりました。この戦争では、同じく統一プロセスの途上にあったイタリアがプロイセン側を支援しました。これは勝利のために戦略的に極めて重要であり、オーストリア軍は二正面に分断され、弱体化した状態でプロイセン軍と戦わざるを得なくなりました。
オーストリアへの勝利により、プロイセンは戦争中オーストリア側についたゲルマン系公国の大部分を併合しました。さらにこの征服を通じて、オーストリアを排除した北ドイツ連邦を結成し、オーストリアに対しては賠償金の支払いを強制しました。
普仏戦争(1870〜1871年)
ドイツ統一の最後の紛争となったのが、1870年から1871年にかけてフランスとプロイセン王国の間で行われた普仏戦争です。この戦争は、スペイン王位継承問題をめぐる両国間の対立が引き金となりました。加えて、まだプロイセンに併合されていなかったゲルマン諸王国の支配権をめぐる駆け引きも背景にありました。
普仏戦争は、ヨーロッパの政治情勢と国境線を完全に塗り替えることになりました。フランス軍はいくつかの善戦を見せたものの、戦略と兵器の面で時代遅れであることが露呈し、プロイセンに大敗を喫しました。この敗北はフランスに大きな屈辱をもたらし、プロイセンが課した苛酷な条件を受け入れざるを得ませんでした。
プロイセンはアルザス=ロレーヌ地方の割譲、50億フランの賠償金、そしてパリ市内におけるプロイセン軍の凱旋行進の受け入れを要求しました。この勝利と新たな領土を得て、ヴィルヘルム1世は1871年にドイツ帝国を樹立し、皇帝(カイザー)として戴冠しました。
ドイツ統一の結果と影響
ドイツ統一は、19世紀末のヨーロッパの勢力均衡を大きく変革しました。オットー・フォン・ビスマルクが主導したこの事業の成功により、ドイツは列強の地位に躍り出て、アフリカでの植民地獲得を目指すなど帝国主義的な野心を強めていきました。
一方、普仏戦争の終結時にフランスに課せられた屈辱は、両国関係を一段と悪化させ、「復讐主義(ルヴァンシュマン)」の感情を育みました。これは第一次世界大戦勃発の重要な要因の一つとなりました。こうしてドイツの帝国主義的拡張はヨーロッパで現実のものとなり、その後1914年にはドイツがフランスへの攻勢を開始することになるのです。