
植民地問題を論じるうえで、その経済的側面に触れないままでは、この考察は不完全なものになってしまう。
1927年以降の新たな経済ビジョン
1927年以降、先見の明を持つ人々は、海外領土における鉱物資源の探査を大幅に拡充し、採掘した原鉱石を現地で加工することで、地域産業の芽を育てるべきだと主張していた。彼らにとっての課題は、前世紀型の経済から脱却して20世紀の経済へ移行するとともに、2000年に向けた未来の経済にも備えることにあった。貴重な富の源泉をこれ以上放置するのは愚かなことだ、と彼らは訴えたのである。
この構想は、調和のとれた均衡ある経済を実現する道でもあり、人口爆発期にあった北アフリカやインドシナの人々に、きちんとした報酬を伴う雇用を提供する手段でもあった。加えて、帝国全体の工業潜在力の向上は、この分野でドイツに憂慮すべき差をつけられていた本国にとって、そしてフランス本土と海外領土の国防需要にとって、いずれも大きな価値を持つものだった。航空技術の進歩や軍隊の機械化は、防衛力と生産力を縦深的かつ多層的に分散配置することを求めるのではないだろうか。
ラボンヌと石油探査の先駆者たち
こうした大胆な新構想の推進者として際立つ存在が、エイリーク・ラボンヌ(Eirik Labonne)である。彼はすでにモロッコにおいて鉱物資源調査に強力な推進力を与えて目覚ましい成果を上げており、確認された鉱床の開発・採掘を担う半官半民企業の設立も同国で実現させていた。
また、フランス帝国全体で年間わずか15万トンの石油しか生産していないという現実は、これら先駆者たちにとって看過しがたい不条理に映った。だからこそ、探査と試錐は緊急の課題となった。ところが彼らは、官公庁のお墨付きを得た技術者たちや公式の「予言者」たちから、皮肉めいた冷笑を浴びることになる。「詩人」「空想家」という侮蔑的なレッテルを貼られた彼らの構想は、1939年以前には何ら真剣に取り上げられることがなかった。本来なら、その20年前に着手されてしかるべき事業だったのである。
1940年の嵐と海外領土の答え
飾り気のない事実と観察の積み重ねから、ひとつの確信がはっきりと浮かび上がってくる。フランスがその帝国で行った事業には、あらゆる人間の営みが宿命的に抱え込むように、各分野で欠陥――ときには深刻な欠陥――が確かに存在した。しかし同時に、共感に値し、さらには敬意にすら値する数多くの積極的な側面もまた、そこにはあったのである。
その何よりの証拠が、1940年6月に本国が屈したあの恐ろしい動乱のさなかにおける海外領土の態度である。どの領土も離脱せず、どの領土も反乱を起こさなかった。これは、声を大にして称えるに足る、あまりにも顕著な事実なのである。