古代の歴史

厳しい藪の中で――1945年、アレッサンドリ部隊のインドシナ撤退戦

トゥルン・ハ渡河点をめぐる死闘

開かれたまま残されていたのはトゥルン・ハ(Trung Hà)の渡河路だけであり、部隊はこれを急いで通過せねばならなかった。3月10日午前10時30分には、敵の先頭装甲車がすでに我が後衛部隊と接触していたのである。日本軍の攻撃にもかかわらず、ほぼ全員が渡河に成功した。最後尾の将兵は敵火の下での渡河を強いられたが、渡河用の舟艇を使えない満載トラックや砲は、焼却されるか使用不能にされた。

夜明けとともに離陸するはずだったトン(Tông)飛行場のポテーズ(Potez)機は、夜のうちに同飛行場へ潜入した日本軍の手に落ちた。日本軍はこれら旧式機を使用しなかったものの、その喪失は我々にとって痛恨の極みであった。連絡・観察の手段は、3月9日夜から10日にかけてトンに不在だったわずか3~4機に減っていたからである。

補給を絶たれた部隊、二つの支隊へ

3月11日、部隊はトゥークック(Thu Cuc)付近に達したが、事実上すべての補給を失い、現地調達によって生き延びることを余儀なくされた。人口希薄で資源の乏しいこの地域では大量の人員を養えないため、アレッサンドリ(Alessandri)将軍はインドシナ兵との別離を決断し、彼らはその日のうちに動員解除となった。補給を容易にするためにも、残存部隊(約1,500名、うち外人部隊兵800名)は、フランソワ(François)大佐とプリュニャ(Prugnat)少佐の指揮する二つの支隊に分割された。

第一支隊は黒水河(ソンコイ川)とソンマー川(Song Ma)の間を進み、メオ峠(Meo Pass)を目指す。一方、プリュニャ支隊(第2/5外人歩兵連隊・第3/4植民地砲兵連隊・D.M.C.・航空要員)は、ギアロー(Nghia Lo)、トゥーレ(Thu Le)、ターンウエン(Than Uyen)を経てフォントー(Phong Tho)へ向かうことになった。これは黒水河と紅河の間を進み、フランソワ縦隊の側面を掩護するとともに、状況次第では紅河以東のクレール川部隊との連絡を確保するためであった。

期待はずれに終わった増援要請

3月12日、2機の「リベレーター(Liberator)」が武器と弾薬の空中投下を行った。さらなる投下が要請され、期待された。しかし増援は来なかった。3月24日、アレッサンドリ将軍はディエンビエンフー(Dien Bien Phu)でカルカッタから派遣されたボーム(Baume)中佐と会見するが、「連合国側が極東における我がC.L.I.(挺身軽介入軍団)輸送についての意向を明らかにしなかった」ため、増援は実現しないことが確認されたのである。

こうした状況下、撤退戦は、フォルマシャ(Fourmachat)中佐率いる第4軍管区(T.M.)部隊とウジエール(Euzières)少佐の大隊(第5T.M.)によるわずかな増強だけを頼りに続けられるほかなかった。各主要な隘路で、一つひとつの峠で、我が部隊は命令どおり「インドシナ領内にできる限り長く留まる」ために戦い抜いた。

相次ぐ拠点の陥落と中国への退去

モックチャウ(Moc Chau)は3月19日に、ソンラ(Son La)は25日に、ディエンビエンフーは4月4日に、ムオンクア(Muong Khoua)は12日に、ブンタイ(Boun Tai)は22日に陥落した(地図参照)。4月6日以降、プリュニャ縦隊の残存兵力――第2/5外人歩兵連隊はソンラ防衛強化のため引き抜かれていた――は、ポーカンサップ(Pou Kan Sap)で日本軍を食い止めた後、命令により同陣地を放棄し、バンクオン(Ban Cuong)経由で中国領内へ入った。

約500名(うちヨーロッパ人300名)からなるフォルマシャ支隊は、4月2日にライチャウ(Lai Chau)を撤収し、ポーバイ(Po Bai)、ムオントン(Muong Tong)、ムオンジエ(Muong Nhie)を経て退却した。この支隊は4月29日、パーチャン(Pa Chan)から中国入りを果たす。フランス臨時政府(G.P.R.F.)の新全権代表サバティエ(Sabattier)将軍はその前日、スートゥン(Xu Tung)に到着していた。アレッサンドリ将軍は4月3日のカルカッタでの最後の増援要請の後、5月5日にインドシナ領外への退去を決意した。

二か月に及ぶ苦難の転戦

不十分な配給――しばしば米だけが支給された――、雑多で一部は旧式化した武装、乏しい弾薬、ぼろぼろの軍服、そして靴すらない状態で、フランス軍は二か月間にわたり、近代的装備を擁する日本軍縦隊と対峙し続けた。戦闘を交えながら、これらの部隊は起伏に富んだ険しい地形、藪の広がる困難な土地を、時にはほとんど道標のない小径を辿って、数百キロメートルを行軍したのである。

第14米国航空軍(14th U.S.A.F.)による支援は、本来あり得た姿には程遠かったものの、日本軍縦隊に対する数回の攻撃と二、三度の落下傘投下によって、我が部隊を幾分なりとも救った。

セガン大佐とクレール川支隊の任務

セガン(Seguin)大佐の指揮下にあるクレール川支隊の任務は、トゥエンクアン(Tuyen Quang)付近においてアレッサンドリ部隊の左側面を掩護することであった。同支隊はさらに、紅河の東および北方面におけるゲリラ戦任務も担っていた。G.R.C.(クレール川支隊)の戦力は、3個大隊(第2および第4/9植民地歩兵連隊、第3/10植民地行進歩兵連隊)、75mm砲3個中隊(第4植民地砲兵連隊)、カオバン(Cao Bang)機動支隊(第3T.M.)、ならびに若干のインドシナ騎馬衛兵小隊で構成されていた。