
第二次世界大戦の終結を目前に控えた1943年、ロッキード社は驚異的なスピードでアメリカ初の実用ジェット戦闘機を完成させました。設計作業の開始から初飛行までわずか139日。この「シューティングスター」は、朝鮮戦争において史上初となるジェット機同士の空中戦に参加するなど、航空史におけるジェット時代の幕開けを飾った名機です。
F-80C シューティングスター 主要諸元
- 機体名:ロッキード F-80C シューティングスター
- 製造メーカー:ロッキード社(Lockheed Aircraft Corp.)
- 分類:戦闘爆撃機
- 登場年:1948年
- エンジン:ゼネラル・エレクトリック J33-A-23 ターボジェット(推力2,086kg)
- 全幅:11.85m
- 全長:10.51m
- 全高:3.45m
- 離陸重量:7,646kg
- 最大速度:高度2,133mにて933km/h
- 実用上昇限度:13,030m
- 航続距離:2,220km
- 武装:12.7mm機関銃6門、爆弾・ロケット弾など最大907kg
- 乗員:1名
誕生までの道のり――139日間の快挙
P-80計画の起源は1943年6月にさかのぼります。当時のアメリカ陸軍航空隊(後の空軍)の技術当局は、ターボジェットエンジンを搭載した単座戦闘機の開発をロッキード社に正式に要請しました。すでにベルP-59 エアラコメット(アメリカ軍用機として初のジェット機)の試作機が飛行してはいたものの、その性能は期待外れだったのです。
クラレンス・L・「ケリー」・ジョンソン率いるロッキードの設計チームは、わずか1週間で基本設計をまとめ上げ、試作機の製造に6ヶ月を要求しました。そしてこの日程はほぼ守られ、最初のXP-80は作業開始から139日後の1944年1月8日に初飛行を果たします。残る2機の試作機(XP-80A)はその半年後に完成しました。こちらは新型エンジンの採用に伴う構造変更が加えられた点が初号機と異なっています。
その後、開発は1944年10月から引き渡しが始まった13機の先行量産型(YP-80A)による運用試験へと進みました。ヨーロッパでの戦争終結直後には、そのうち2機が実戦評価のためイタリアへ送られています。
量産化と改良の歩み
戦時中に設計された他の機体と同様、大戦の終結は大規模に計画されていた生産プログラムの大幅な縮小をもたらしました。当初はロッキード社とノースアメリカン社の2社で合計5,000機を製造する予定でしたが、実際にはロッキード社のみがP-80Aを917機生産し、1945年12月からアメリカ空軍の第一線部隊への配備が始まりました。この発注の最後240機は、エンジンと武装に改良を施したP-80Bとして納入されています。
さらに強力なエンジンを搭載した最終型P-80Cは1948年に登場し、798機が製造されました。この型の開発を後押ししたのが、1947年6月19日に行われた記録飛行です。改造を受けたP-80Aには、のちにP-80Cシリーズにも搭載される推力2,086kgのGE J33-A-23エンジンが装備され、胴体と主翼にも数多くの空力的な改善が加えられました。これらの改良により、アルバート・ボイド大佐は平均速度1,003.69km/hの世界速度記録を樹立することに成功したのです。
朝鮮戦争と史上初のジェット戦
構想から初飛行までわずか180日足らずで生まれたこの機体は、第二次世界大戦には間に合いませんでしたが、1950年に勃発した朝鮮戦争で大量に投入されました。実戦投入から最初の4ヶ月間だけで15,000ソーティ以上の出撃を記録しています。そして1950年11月8日、F-80の一機が、MiG-15との交戦により史上初となるジェット機同士の空中戦に参加しました。
練習機T-33とその後の足跡
3つの基本型で合計1,715機が製造されたシューティングスターでしたが、より高性能なF-84やF-86が前線部隊に配備されると、第一線を退き、空軍州兵部隊などを中心とした二次的任務に回されました。多くの機体が写真偵察機や標的曳航機へと改装されています。
一方、複座の練習機型T-33の生産は順調に続きました。アメリカ国内ではなんと5,691機が製造されており、これは戦闘機型の3倍以上に相当する数です。T-33はアメリカ空軍の基礎練習機として採用され、40カ国へ輸出されました。さらにカナダと日本でも866機がライセンス生産されています。訓練機としての生産は1959年まで続き、シューティングスターの血脈は長く世界の空を飛び続けたのです。