概要
リチャード・アイラ・ボン(Richard Ira Bong、1920年9月24日 - 1945年8月6日)は、第二次世界大戦におけるアメリカ陸軍航空隊の戦闘機パイロットであり、連合国側のエース・パイロットとして史上最多となる40機の公式撃墜記録を持つ伝説的存在です。愛機のロッキードP-38「ライトニング」を駆り、南西太平洋戦域で日本軍機を次々と撃墜。「エース・オブ・エース」の称号と名誉勲章を授与されましたが、終戦直後にジェット戦闘機P-80「シューティング・スター」のテスト飛行中に事故死し、わずか24歳でその生涯を閉じました。
幼少期とパイロットへの道
1920年、ウィスコンシン州ポプラの農家の息子として生まれたボンは、幼少期に狩猟で野鳥を観察するうちに航空機への興味を抱き、模型飛行機を自作して飛ばすようになりました。この「パイロットへの憧れ」は彼を離れませんでしたが、農家の息子という出自が夢の実現を難しくしていました。
転機は1941年春、アメリカが大規模な航空要員養成計画を開始したことでした。ボンはウィスコンシン州ワサウの徴兵事務所で身体検査に合格し、カリフォルニア州チューレアで複葉機による基礎訓練を受け、ガードナー飛行場、ルーク飛行場へと進み、優秀な成績で戦闘機パイロットの道を歩み始めます。
P-38「ライトニング」との出会い
1942年1月9日、少尉として戦闘機パイロットの資格を得たボンは、ルーク飛行場で教官を務めた後、ハミルトン飛行場で新鋭機P-38J「ライトニング」の戦闘訓練を受けます。多くのパイロットが扱いにくさを敬遠したこの双胴・双発機を、ボンは瞬く間に我が物とし、生涯の相棒としました。
同年7月、サンフランシスコ上空の飛行中、ボンは突如としてP-38の性能を試すべく、ゴールデンゲートブリッジの主桁下を低空通過し、さらに市街地のビル2階の高さを飛び回るという無謀な曲技飛行を行います。この暴挙は第5航空隊司令官ケニー将軍の耳に入り、厳重な叱責を受けましたが、ケニーは同時に彼の卓越した飛行技術を見抜いていました。
ニューギニア戦線での活躍
1942年9月、中尉に昇進したボンは第49戦闘群第9戦闘飛行隊「フライング・ナイツ」の一員としてオーストラリアへ渡り、まもなくニューギニアのラロキ(第35戦闘群第39飛行隊に一時配属)へ前進します。補充要員という立場ながら、到着から1週間で初撃墜を記録。内気で小柄な金髪の青年は、戦闘任務での自発的な僚機支援により、瞬く間に仲間からの信頼を勝ち取りました。
1942年12月27日、エンジントラブルで単機となった僚機が零戦4機に襲われているのを発見したボンは、単身で敵編隊を攪乱し、2機を撃墜。その後も驚異的なペースで戦果を重ねます。
主な撃墜記録(1943年前半)
- 1月7日:九七式戦闘機「九七戦」(連合軍コードネーム:オスカー)2機
- 1月8日:オスカー 1機
- 3月3日:オスカー 1機
- 3月11日:オスカー 2機
- 3月29日:九九式艦上爆撃機「九九艦爆」(ドリス)1機
- 4月14日:一式陸上攻撃機「一式陸攻」(ベティ)1機
- 6月26日:一型戦闘機「隼」(トニー)2機、オスカー 2機の計4機(1日4機撃墜)
- 10月6日:百式司偵(ダイナ)1機
- 10月29日:零戦 2機
- 11月5日:零戦 2機
最初の1年間で21機の公式撃墜を記録し、早くもエース・オブ・エースへの道を駆け上がりました。
ライバル:トーマス・マグワイアとの「友情の決闘」
1944年初頭、ボンは第5航空隊の「ビッグスリー」の一角として、ニール・カービー大佐(19機)、トーマス・リンチ中佐(18機)と並び称されました。もう一人のライバル、トーマス・マグワイア大尉(のち中佐、最終38機)も11機で追随していました。
1944年2月、情報部がラバウル発ウェワク行きの日本軍輸送機(高級参謀搭乗)を暗号解読で察知。ボンとリンチ中佐が迎撃に向かいますが、到着時には着陸済み。リンチの攻撃が失敗した後、ボンが一撃で輸送機を爆砕しました。ただし地上撃破と判定され、公式記録には加算されません。
3月3日、ボンは「九七式重爆」(サリー)2機を撃墜し23機目。6日後に親友リンチを戦死で失います。4月3日には25機目(オスカー)を記録し、翌11日、ホランディア空襲の護衛任務でオスカー2機を撃墜し、第1次大戦のエース・エディ・リッケンバッカーの持つアメリカ軍記録26機に並び、さらに28機目でこれを更新しました。
この頃、本土で新射撃法を習得するためフォスター飛行場へ一時帰還。復帰後は「教官として自衛以外の戦闘行動禁止」との命令を受けますが、10月10日に2機、27日に1機、翌日に2機を撃墜し、命令の建前を保ちつつ戦果を伸ばします。
フィリピン・タクロバンでマグワイア中佐(当時25機)と対面したふたりは、互いの記録を意識しつつも敬意を払う「友情のライバル関係」を築き、基地全体が二人のスコア競争で沸き立ちました。
40機目と名誉勲章
1944年12月、ボンはサンホセ付近でオスカー1機を撃墜し、大記録となる40機目を達成。第2次作戦行程を終え、ダグラス・マッカーサー元帥から直接名誉勲章を授与されます(すでに殊勲十字章、殊勲飛行十字章7個、シルバースター2個、エアメダル15個を受章済み)。
ケニー将軍は依然としてボンを前線から引き離そうとし、ライト飛行場(オハイオ州)のテストパイロットへ異動させます。ボンは不本意ながら従い、1945年6月まで同地で勤務。その後バーバンク(カリフォルニア州)の航空産業局飛行作戦主任として、新型ジェット戦闘機P-80「シューティング・スター」の受け入れ試験を担当しました。
悲劇の最期
1945年8月6日、バーバンク発のP-80試験飛行中、離陸直後にターボジェットエンジンが出力低下。機体は一瞬浮いた後、傾いて滑走路付近に墜落し、ボンは即死しました。享年24歳。同日、広島に原子爆弾が投下され、戦争は終結へ向かいますが、第5航空隊のパイロットたちは英雄の死を悼みました。
人物像と評価
ボンの戦闘報告書は極めて簡素で、ケニー将軍が直接確認に来た際も「離陸時刻、到達時刻、撃墜時刻、着陸時刻のみ」と記されていた逸話が残っています。派手さを嫌い、任務と僚機の生存を最優先したその姿勢は、多くのパイロットの模範となりました。
公式記録40機は、アメリカ軍パイロットとして破られていません。ウィスコンシン州スペリオルには「リチャード・ボン記念館」が建てられ、彼の功績は今も語り継がれています。
出典・参考:第5航空隊公式記録、ケニー将軍回顧録、アメリカ議会図書館蔵資料、各種戦史資料