第一次世界大戦のムーズ・アルゴンヌ攻勢において、ロバート・ブラード将軍率いる部隊がクリームヒルデ線の前で足止めされていた間、ハンター・リゲット将軍は自軍の側面を守るための大胆な作戦を準備していた。彼は第82師団を集結させ、アイール渓谷を横断する攻撃を開始。アルゴンヌの森を見下ろす急斜面群を占領することに成功し、「失われた大隊」にかかる圧力を和らげた。
そして、この攻撃のさなかに、アメリカ合衆国における大戦最大の英雄の一人が誕生した。第328歩兵連隊G中隊所属のアルヴィン・C・ヨーク伍長である。
良心の拒否者から伝説的英雄へ
ヨークはもともと良心的兵役拒否者でありながら、特例で徴兵された人物だった。しかし訓練期間中、このテネシー州山岳地帯出身の青年は、優れた射撃の腕前を遺憾なく発揮してみせた。
10月8日、ヨークは敵機関銃陣地を制圧するために派遣された17名の偵察隊の一員として出撃した。偵察隊はドイツ兵の一団を捕虜にしたものの、まもなくより規模の大きい敵部隊から反撃を受けた。混乱の中、アメリカ兵たちは遮蔽物に身を潜め、捕虜の監視に専念しようとした。
しかし、ヨーク伍長だけは違った。彼は単独で反撃に転じ、その凄まじい戦いぶりで少なくとも15名の敵兵を倒したのである。最終的には、将校5名を含む132名のドイツ兵が、彼ひとりに対して降伏した。
二個軍の編成とパーシングの決断
10月12日までに、アメリカ軍は2個軍を編成できるまでに戦力を整えた。第1軍はリゲット将軍に、第2軍はブラード将軍に委ねられることになった。ところが、両将軍が指揮体制を確立する前に、パーシング将軍は自ら第1軍の直接指揮を執り、クリームヒルデ線への総攻撃を敢行したのである。
コート・ダム・マリー高地の攻防
パーシングは、ロマーニュ西方に位置するコート・ダム・マリー高地が鍵となる要衝であることを見抜いていた。10月14日、彼は挟撃作戦を発動。第5師団と第6師団が高地の両側面から攻撃をかける一方、第32師団には稜線へ向けて正面からの陽動攻撃を命じた。
この第32師団は、損害を補うため、ほとんど訓練を受けていない若い新兵5,000名を直前に受け入れたばかりだった。同師団は持ち前の勇気を振り絞って高地攻略に挑んだものの、有刺鉄線に阻まれ、文字通り粉々に打ち砕かれていった。
第126歩兵連隊第3大隊は、砲撃と巧みに配置された機関銃火に釘付けにされ窮地に陥ったが、エドワード・B・ストローム大尉の勇気によって救われた。ストローム大尉はわずか7名の部下を率いて敵陣へ真っすぐ突撃。激しい火力の中を、機関銃陣地へと突き進んだのである。
戦争における奇妙な偶然のひとつと言うべきか、ストロームの小部隊は一人の死傷者も出さずに切り抜けた。この活躍によってコート・ダム・マリー高地は陥落し、ついにクリームヒルデ線も突破された。
大きな代償を伴う勝利
第5師団と第42師団の運はこれほど良くなかったが、それでも10月16日には要塞化された敵陣地に到達した。パーシングは3週間前に計画していた目標を達成した。ただし、それが自軍にどれほどの苦労と犠牲をもたらすことになるのか、当時の彼は知る由もなかったのである。