チャーチルからの「一寸たりとも渡すな」電文
1月20日、チャーチルはウェーヴェル宛てに個人的な電文を送り、自らの意志を疑う余地なく示した。
「この点は絶対的に明確にされたい。すなわち、一寸(いっすん)たりとも土地を敵に明け渡さず、あらゆる装備・施設を破壊して敵の手に落ちることを防ぐこと。降伏が問題となるのは、シンガポール市街の瓦礫の中における長期にわたる戦闘の後のみである」と。
パーシバルが描いた三防区体制
翌21日、ウェーヴェルはパーシバルに対して自らの防衛計画を提示したが、パーシバルはこれを拒否した。代わりに彼が選んだのは、島(約32キロ×17キロ)を三つの防区に分割する案であった。オーストラリア軍が西部を、イギリス第18師団が北部を、インド予備部隊が南部をそれぞれ担うという配置である。
1月24日、パーシバルは必要とあらば島へ撤退せよとの命令を発し、4日後にはこの作戦を1月30日夜から31日にかけて実施すると定めた。彼はウェーヴェルに「全般的状況は極めて重大である」と警告し、さらにこう報告している。
「危機的状況。敵は西海岸に展開する我が主力部隊を分断し、側面から包囲した。全兵力を島内へ撤収させなければ、我々は島において決定的に不利な立場に立たされるだろう。空軍戦力は今や戦闘機9機にまで落ち込んだ……」
「戦力外」扱いだった近衛師団の実力
西村琢磨中将率いる日本軍近衛師団は、当初こそ戦闘に適さないと評価されていた。しかし、西海岸沿いを進撃する過程で、同師団は他の日本軍部隊に一切劣らぬ戦闘力を発揮してみせた。とりわけバクリからパリット・スロンに至る区間では、遭遇したほぼすべての英連邦軍部隊を撃滅したのである。
届いた増援、しかし時すでに遅し
一方、シンガポールには増援が到着しつつあった。1月22日、インド歩兵第44旅団を含む約7,000名が上陸し、2日後には1,900名のオーストラリア兵とイギリス第18師団の主力が続いて到着した。だが、これらの部隊に熱帯の気候へ順応する余裕はまったくなかった。歩くことさえままならない兵士もおり、多くは十分な訓練を受けていなかった。さらに追い打ちをかけたのが、シンガポールで彼らを目にした混乱の様相と漂う敗北主義的な空気であり、それが増援部隊の士気を最終的に打ち砕いたのである。