古代の歴史

ジャワ島5日間の旅:ヨグヤカルタ到着と悪夢のような初夜

ジャワ島滞在5日間の記録、その最初の日。バリ島から飛行機でヨグヤカルタへ向かった私たち家族を待っていたのは、期待と現実のあまりにも大きなギャップだった。

ヨグヤカルタ空港での出会い

事前にウェブサイトを通じて、ヨグヤカルタのサービスアパートメントを予約していた。オーナーはイスラム教徒の教師マスペリオ氏で、2部屋とキッチン付きの部屋を提供するとともに、奥様がベジタリアン料理を作ってくれると約束していた。すべてオンラインでのやり取りだ。インド風の味付けでないと満足できない私たちは調理を断り、ベジタリアンの定義が国によって異なることも懸念していたが、掲載写真を信じて予約を決めた。空港からアパートまでのタクシー代は750ルピー(約1,300円)とのことで、妥当だと判断した。

ドライバー、アント氏との対面

到着ロビーを出ると、マスペリオ氏が手配したドライバーが、ヴィジャイの名前を書いた紙を持って待っていた。色白で陽気な中背の青年だ。彼は合掌して「ナマステ」とインド式に挨拶してくれた。異国の地でこの挨拶を交わすと、一瞬で心の距離が縮まる不思議な魔法がある。彼の名はアント。私たち全員の名前を聞き、すぐに覚えてくれたらしく、ほどなくして私を「ミスター・モハン」と呼び始めた。私も「ミスター・アント」と呼び返すと、彼はいつも特別な笑みを浮かべた。

荷物を広い車内に積み込み、家族揃って出発。車はプトゥ氏のものと同様、ゆったりとしたサイズだった。

「アイム・ソーリー」が口癖の紳士

車が動き出して数メートル、助手席の父に向かってアント氏が言った。「アイム・ソーリー、シートベルト・プリーズ!」父は謝りながらベルトを締めた。後に判明したことだが、彼は何かを言う前に必ず「アイム・ソーリー」、話し終わりには必ず「サンキュー」をつける習慣があった。

他にも感心させられる習慣があった。車を止めるとすぐ降りてドアを開け、発進前には全ドアが閉まっているか自分で確認する。手際が良く、時間を取らない。道中の地名や見所も簡潔に教えてくれた。

ヨグヤカルタの輝き

空港を出てヨグヤカルタの街を走り始めると、その洗練された姿に息を呑んだ。プネーのような大都市で、道路は広く、中央分離帯で上下線が分けられ、さらに左側は二輪車、右側は四輪車専用レーンになっている。この整備のおかげで車はスムーズに流れ、クラクションを鳴らす必要がない。ところどころに信号機付き横断歩道があり、歩行者も安全に渡れる。道は清潔で、物乞いも、交差点にたむろする露天商もいない。両側には大きな市場やモール、高級店が延々と続く。

約30分走って気づいた。バリ島とヨグヤカルタは全く別物だ。バリの静かで素朴な暮らしとは対照的に、ヨグヤカルタは煌びやかな都会の魅力に満ちている。バリを「清潔で文明化された田舎」と呼ぶなら、ヨグヤカルタは正真正銘のメトロポリスだ。クタのような都市もあるが、規模が桁違いに小さい。

モールの輝きと働く女性たち

牛乳と野菜を買いたいと伝えると、アント氏はモールへ連れて行ってくれた。私とヴィジャイが中へ入り、家族は車で待機。そこは世界のどの一流モールにも引けを取らない、ガラスと光が織りなす別世界だった。

売り場の場所を尋ねようとしたが、英語を話せる店員が一人もいない。インドネシア語がローマ字表記で書かれており、読めない。自分たちで探すことにし、ほどなく野菜・果物コーナーを発見。世界各国の野菜が並び、玉ねぎ、じゃがいも、リンゴ、トマトだけでも何種類あるか数えきれない。バナナ、スイカ、メロンも豊富。牛乳は紙パックで売られていた。

18〜20歳の少女たちが見せたプロ意識

レジには18〜20歳の少女たちが立ち、全員がスカーフで耳と頭を覆っていた。手際は驚くほど速い。客から支払いを受け、釣り銭を渡す一連の動作に無駄がない。私たちがインド人だと気づくと、合掌して笑顔で迎えてくれた。迅速に会計を済ませ、正確にお釣りを返す。「なぜインドではこのような礼儀正しさとスピードが両立できないのか」と自問せずにはいられなかった。

巨大なモールに客は大勢いるのに、雑踏感がない。大声も、慌ただしさも、だらけきった仕事ぶりもない。売り場の9割以上を若い女性が占め、若い男性はごくわずかだ。

インドネシアは人口の9割がムスリムのイスラム国家だ。インドは「世界一のムスリム人口を抱える国」と繰り返し主張するが、両国のムスリムには雲泥の差がある。インドのムスリムは貧困、無学、後進性、人口増加で知られる。女性はブルカと三回の離婚宣言(トリプル・タラク)の問題に今も苦しむ。一方、インドネシアのムスリム女性たちは、どの国の女性にも負けない品位と能力で、あらゆる仕事を忍耐強く、冷静に、巧みにこなしていることを世界に証明している。

住宅街の光と影

モールを後にし、車は再び走り出す。空港から約1時間、商業エリアが終わると高級住宅街が始まる。店は減るが、豪邸が建ち並ぶ。

寂れた集落へ

さらに進むと、その輝きも途絶え、アント氏の車は一本の道へ曲がった。そこは寂れた集落だった。緑に塗られた小さな家々の前で鶏が走り回り、モスクからアザーン(礼拝の呼びかけ)がスピーカーで流れる。やがて、ウェブサイトで見たのと同じ錆びた鉄格子の門前で車が止まった。外観は芳しくなかったが、荷物を降ろし始めた。

真実を目の当たりにして愕然

門をくぐると、幅90cm、長さ3mほどの狭い通路が奥の部屋へ続いている。両脇は黒ずんだ汚水が溜まった巨大な溝になっており、1歳半の幼子がいつ落ちてもおかしくない。目を離せば命取りだ。

部屋の中はさらに酷かった。天井に扇風機もエアコンもない。ドアは壊れ、釘が飛び出して手を刺す。卓上扇風機が1台ずつあるだけで、風は微弱。小さな蛍光灯が1つぶら下がり、床面は薄暗い。洗面台に蛇口はなく、トイレは絶望的な汚さ。2つあるトイレのどちらにも洗浄機能がない。片方はドアの代わりにカーテンがかかっているだけ。壁にある蛇口をひねると、天井近くのパイプから水がチョロチョロと出る仕組みだ。「ここでどうやって過ごせばいいのか」全員が自問した。

キッチンについて尋ねると、「隣の家(大家の住居)にあり、そこで大家の食事も作っている」とのこと。冷蔵庫を開けると、魚と鶏肉が生のまま保存されていた。妻のマドゥは「ここで料理は絶対にしない」と拒否。私たちが自炊することも不可能だった。

夜への備え

時刻は午後5時半過ぎ。バリより1時間遅いヨグヤカルタでは、実質距離502kmしか離れていないのに、もう暗くなり始めていた。今から別のサービスアパートを探すのは無理。ホテルに泊まれば自炊できない。大家に近くでまともな部屋を知らないか聞いたが、マスペリオ氏はきっぱり断った。アント氏に聞いても「ホテルなら連れて行けるが、サービスアパートは知らない」とのこと。

焦っても始まらない。冷静に対処するしかない。マスペリオ氏に頼み、部屋前の狭いベランダにガスコンロと木のテーブルを置き、20リットルのRO水を手配してもらうことで、そこで食事を準備できるよう取り計らってもらった。私たちの惨状を見かねたのか、彼は要求を飲んでくれた。

重なる試練

マドゥとバーヌが食事の支度をする傍ら、ヴィジャイと私は翌3泊分のサービスアパートをネットで予約しようとした。ここでまた危機が。部屋の中ではWi-Fiが繋がらず、ベランダに出るとノートPCのバッテリーがすぐ切れる。ベランダにコンセントがない。3時間ほど格闘し、ようやく候補を決めても、パスポートのスキャンデータがWi-Fiの低速でアップロードできず、予約が完了しない。

スシュマの機転

ヴィジャイが妹のスシュマに連絡した。インフォシスでソフトウェアエンジニアを務め、チャンドィーガル在住の彼女が、たまたまその日、デリーの義実家に来ていた。夫(私の娘婿)もその日は仕事が休みだった。スシュマはデリーから、私たちが選んだサービスアパートを予約してくれた。チェックインは午後2時以降だが、早朝に移動したい旨を伝えると、オーナーのロゴヴィタさんから「清掃に時間がかかるため、朝8時ではなく11時なら可能」と返答があった。

鶏の鳴き声、アザーン、蚊の襲撃

食事を済ませ、すぐ寝床についた。長い夜になることは覚悟していたが、「あと一晩だ」という思いが支えだった。耐えがたかったのは、不衛生な環境で調理された食事の匂い、魚介類の生臭さ、排泄後の洗浄設備がないトイレだ。一晩中、部屋の扇風機から風は来ない。汚水溜まりのせいで蚊が大量に発生し、私たちインド人一家は格好の餌食になった。時折、道端の雄鶏が鳴き、しばらくすると近くのモスクからムッラ(イスラム教指導者)のアザーンがこだまする。眠りの気配など微塵もない。インド・パキスタン国境沿いをジープで夜通し走った過酷な夜をいくつか経験している私だが、これほど惨めな一夜はなかった。