古代の歴史

ソ連によるアフガニスタン侵攻:冷戦の転換点となった1979年の軍事介入

背景

  • 第二次世界大戦の終結後、米ソという二つの陣営が対立し、いわゆる「冷戦」が始まった。この対立は20世紀後半を通じて続き、1991年のソ連崩壊まで続くことになる。
  • 冷戦の緊張度は時期によって一様ではなかった。1947年から1962年までは強い緊張状態が続いたが、1962年から1977年にかけては「デタント(東西緊張緩和)」と呼ばれる融和期が訪れた。
  • アフガニスタンは1950年代以降、ソ連と良好な関係を保ってきた。これは、アフガニスタンの宿敵であるパキスタンがアメリカと同盟関係にあったことが一因である。しかし1973年7月、クーデターにより国王が追放されると、新たに成立した共和制政権は次第にソ連から距離を置くようになった。
  • 1978年4月、再びクーデターが発生し、モスクワの支援を受けたアフガニスタン人民民主党政権が誕生した。しかし新政権はまもなく宗教勢力からの強い反発に直面し、首相暗殺などの事件も起こる本格的な内戦へと発展していった。

1979年12月24日

登場人物

  • ジミー・カーター(当時のアメリカ大統領)
  • レオニード・ブレジネフ(当時のソ連最高指導者)
  • ミハイル・ゴルバチョフ(後のソ連共産党書記長)

経過

1979年12月24日、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した。戦車部隊と空挺部隊を投入したソ連軍は首都カーブルに入り、秩序の回復を図った。そして親ソ派の共産主義者バーブラーク・カールマルが新たな指導者として擁立された。

しかし、イスラム主義組織の構成員であるムジャーヒディーンは、現政権とソ連に敵対し、ゲリラ戦(軽装備の部隊による攪乱作戦)という形で激しく抵抗を続けた。ソ連軍は厳しい気候に加え、山岳地帯のため移動が困難な国土、そして従来型の戦争に慣れた軍隊がゲリラ戦に対応できなかったことなどから、深刻な苦戦を強いられた。国連は速やかにソ連の介入を非難したものの、占領は長期化することとなる。一方で国際的な介入も存在した。アメリカはサウジアラビアを通じて、ムジャーヒディーンに対する資金支援を行ったのである。

結果と影響

  • ソ連は約20万人の兵力をアフガニスタンに展開した。紛争は1988年まで続き、同年4月14日にはジュネーヴにおいて、ソ連・アメリカ・アフガニスタン・パキスタンの間で合意文書が調印された。多大な損失を嘆いたゴルバチョフは、同年中にソ連軍の全面撤退を実施した。
  • アフガニスタン侵攻は東西関係を大きく揺るがし、デタントの時代に終止符を打った。介入の目的は今なお完全には解明されていないが、モスクワがイスラム主義の拡大から自国を守ろうとしたものと考えられている。デタントの終焉は、アメリカによる対ソ輸出禁止措置や、多くの西側諸国による1980年モスクワオリンピックのボイコットといった形で具体的に表れた。
  • ソ連軍の撤退後も内戦は収束せず、アフガニスタンで初めて自由選挙が実施されたのは、それから長い歳月が流れた2004年のことであった。