古代の歴史

カンバーランド(Cumberland)とは|イングランド最北西部の歴史的カウンティの地理と歴史

カンバーランド(Cumberland)は、イングランド最北西部に位置する歴史的カウンティです。北はスコットランドに接し、東には歴史上のノーサンバーランドおよびダラム、南にはウェストモーランドとランカシャーが隣接していました。現在、この地域は行政改革によって創設されたカンブリア州(Cumbria)の一部となっています。

地理:ソルウェイ湾からイングランド最高峰へ

カンバーランドはイングランド北西海岸に位置し、ソルウェイ湾(Solway Firth)とアイリッシュ海に面しています。南部では狭い海岸平野がカンブリア山地へと連なり、その最高峰スコーフェル・パイク(標高978メートル)はイングランド全体で最も高い山として知られています。

これらの山々は風光明媚なレイクディストリクト(湖水地方)を取り囲み、その一部はかつてカンバーランドの域内に含まれていました。肥沃なエデン渓谷の下流部はカウンティの中央部に広がり、渓谷が北側の海岸平野へと開ける場所には、歴史上の中心地であるカーライル(Carlisle)が位置しています。また東側では、ペナイン山脈がノーサンバーランドやダラムとの境界線を形作ってきました。

先史時代からローマ支配の時代へ

青銅器時代の遺構として、この地域にはストーンサークル(環状列石)が数多く残されています。特に有名なのが、リトル・セルケルド近郊の「ロング・メグとその娘たち(Long Meg and Her Daughters)」、そしてケズウィック近郊の「キャッスルリッグ・ストーンサークル」です。

西暦122年から126年にかけて、ローマ皇帝ハドリアヌスは、ノーサンバーランドのウォールズエンドからカンバーランドのボウネス・オン・ソルウェイに至る大規模な城壁群を築きました。これこそが世界的に名高いハドリアヌスの長城(Hadrian's Wall)です。ローマによる支配は主として軍事的な性格のものでしたが、当時「ルグヴァリウム(Luguvallium)」と呼ばれたカーライルは、主要な民政拠点として機能しました。

4世紀後半には、聖ニニアン(St. Ninian)がキリスト教をこの地に伝えたとされています。7世紀に入ると、ノーサンブリア王国がケルト語を話すブリトン人の住むこの地域を征服しました。なお「カンブリア」という地名は、ウェールズを指す「カンブリア」と同じく、ウェールズ語の「キュムリ/キュムル(Cymry/Cymru)」をラテン語化した呼称に由来するものです。

中世:スコットランドとイングランドのはざまで

カンバーランド(Cumberland)とは|イングランド最北西部の歴史的カウンティの地理と歴史

9世紀には、アイルランドやマン島から来たデーン人やノース人がカンブリア地方を襲撃しました。945年にはイングランド王エドマンド1世が、史料上その名で初めて言及された「カンブラランド(Cumbraland)」一帯を破壊し、軍事支援の約束と引き換えにスコットランド王マルカム1世へ譲り渡しました。当時のカンブラランドは、現在のスコットランド南西部と、後にカンバーランドとなる地域を含んでいたと考えられています。

11世n

11世紀前半にはノーサンブリア伯がこの地域の一部を支配していましたが、1068年にはスコットランド王が領有を握り、そのほとんどがウィリアム征服王の王国の外側に置かれることになりました。

転機となったのは1092年です。スコットランド王の家臣が治めるカーライルを、イングランド王ウィリアム2世(通称ウィリアム・ルーファス)が攻略しました。彼は町を修復し、カーライル城の建設を命じるとともに、入植者を送り込んで土地の権利を確立させました。ノルマン人の個人名にちなんだ地名が数多く見られるのは、この時期に南からの移住が進んだことの証左です。その後も一時的にスコットランド側の手に戻ることがありましたが、1177年に成立した歴史的カウンティとしてのカンバーランドは、以後一貫してイングランドの一部であり続けました。

国境紛争の時代から観光地への転換

国境に位置するカンバーランドは、古くから絶え間ない係争と流血の舞台となってきました。イングランド内戦期には多くの住民がステュアート朝を支持し、1715年および1745年のジャコバイト反乱でも一部に支持者が現れましたが、その規模は限定的でした。

1745年の反乱を境に、カンバーランドとイングランド他地域との結びつきは大きく強まります。道路の新設や改良が進んで交易が活発化し、絵のように美しい田園風景で知られる湖水地方は、イングランド全土で人気を集める観光地へと発展していったのです。