古代の歴史

鉄のカーテンとは?チャーチルの演説から冷戦の東西分断までを解説

「鉄のカーテン(Iron Curtain)」という言葉は、イギリスの政治家ウィンストン・チャーチルによって生み出されました。彼がこの言葉を初めて使用したのは、1946年にアメリカ・ミズーリ州フルトンで行った演説においてです。

当時の元イギリス首相であったチャーチルは、この言葉を通じて、スターリン政権が第二次世界大戦中に解放した地域への影響力を維持し続け、それらの国々を西ヨーロッパから切り離そうとするだろうと警告しました。

その後、「鉄のカーテン」という表現は冷戦時代を通じて、資本主義陣営と社会主義陣営に分裂した世界を象徴する言葉として広く使われるようになりました。

チャーチルの歴史的演説

鉄のカーテンとは?チャーチルの演説から冷戦の東西分断までを解説

有名な「鉄のカーテン」演説を語るチャーチル。

当初、この演説は必ずしも好意的には受け止められませんでした。というのも、スターリンはナチス・ドイツを打倒するうえでアメリカの最大の同盟国だったからです。しかしチャーチルはロシアを深く理解しており、スターリンが国境を越えて共産主義を拡大しようと全力を尽くすことを確信していました。

そこでチャーチルは、ソ連の占領を受けていないヨーロッパ諸国に対し、経済的・軍事的な支援を行うことで、資本主義諸国がソ連の影響力を食い止めるべきだと訴えたのです。

最もわかりやすい例の一つがギリシャです。ギリシャで内戦が勃発すると、地政学的な理由からイギリスが軍事介入し、同国内の共産主義支持勢力を打ち破りました。

こうした動きの中で、アメリカはヨーロッパ諸国を資本主義陣営へ引き込むため、マーシャル・プランを発動させました。さらに1949年には、これらの国々の間で軍事同盟を保障するためにNATO(北大西洋条約機構)を創設しています。

これに対しソ連は1955年、ワルシャワ条約機構を結成して対抗し、冷戦下の軍事的緊張はさらに高まっていきました。

関連記事:冷戦と東欧について詳しく学ぶ

鉄のカーテンとベルリンの壁

やがて、東ヨーロッパ諸国が次々とソ連の影響圏に入り、共産主義を統治体制として採用していくことがアメリカにとって明らかになってきました。

アメリカが最も懸念していたのは、ヨーロッパ最大かつ最も工業化が進んだドイツの占領問題でした。ドイツはソ連と連合国双方によって解放・占領されていたため、両大国間の摩擦の焦点となる地域だったのです。

そこで打ち出された解決策が、ドイツを4つの占領区域に分割し、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国に勢力圏を保証するというものでした。

こうしてドイツは、アメリカの影響下にあり首都をボンに置く西ドイツと、ソ連の支援を受け首都をベルリンに置く東ドイツとに分断されることになりました。

1961年に建設されたベルリンの壁は、共産主義陣営と資本主義陣営による世界の分断を象徴する存在となり、冷戦期における緊張の中心点の一つであり続けました。

関連記事:第二次世界大戦の帰結

鉄のカーテンの向こう側にあった国々

  • ロシア
  • アルメニア
  • アゼルバイジャン
  • ベラルーシ
  • エストニア
  • グルジア(ジョージア)
  • カザフスタン
  • リトアニア
  • ラトビア
  • モルドバ
  • ウクライナ
  • 東ドイツ
  • ポーランド
  • チェコスロバキア
  • ハンガリー
  • ブルガリア
  • ルーマニア

関連記事:ウィンストン・チャーチルの生涯