古代の歴史

「悪魔神父」と呼ばれた男――ヤセノヴァツ収容所で2万人を虐殺した元修道士の罪

「悪魔神父」と呼ばれた男――ヤセノヴァツ収容所で2万人を虐殺した元修道士の罪

修道士からウスタシャへ

ミロスラフ・フィリポヴィッチ(Miroslav Filipović)は1915年、ボスニアに生まれた。クロアチア系の人物だが、その前半生については多くが謎に包まれている。1938年、彼はフランシスコ会の修道士となり、「トミスラフ」の修道名を受けた。神学の課程を修めた後、1942年1月、パヴェリッチ率いる悪名高いクロアチアの組織「ウスタシャ」に加わり、従軍牧師に任じられた。

バニャ・ルカ地方での虐殺

1941年4月までにパヴェリッチ政権下でクロアチア国家が樹立されると、セルビア人、ユダヤ人、ロマへの凄惨な大量虐殺が始まった(ムスリムは対象外とされた)。1942年2月7日、フィリポヴィッチはウスタシャの大隊とともに、バニャ・ルカ周辺のセルビア人村落への襲撃に参加。男性、女性、子供を含む2,300人以上のセルビア人が虐殺され、その多くは斧によって殺されたという。

修道士であるフィリポヴィッチ自身も、我が手で幼い子供を殺害し、部下に向かってこう叫んだと伝えられる。「私は神の御名において悪魔を改宗させるのだ。お前たちも同じことをせよ」。また別の機会には、クリヴァヤ村の学校にいたセルビア人生徒たちを、たった一人で皆殺しにしたとも言われている。

破門されながらも収容所の指揮官へ

これらの虐殺は、ドイツ軍やイタリア軍の将兵すら嫌悪感を抱かせるほど残虐なものであった。虐殺に積極的に関与したフィリポヴィッチは司祭職を解かれ、フランシスコ会から追放された。しかし、規定上当然科されるべきはずの聖職資格の正式な剥奪は行われなかった。一時拘留されたものの釈放された彼は、やがてヤセノヴァツの死の収容所へと送り込まれた。

そこで彼は看守としての職務に就き、後に一時的に所長も務めた。収容所にいたユダヤ人囚人の証言によれば、フィリポヴィッチは「優雅なスーツ姿に狩猟帽をかぶり、犠牲者たちを愉悦をもって眺めていた……母親から子供を『洗礼のため』と言って取り上げた……母親たちは懇願したが、フィリポヴィッチは子供を空中に投げ上げ、ナイフで突き刺した」という。

殺人競争と「正義は果たされた」の言葉

彼は他の将校たちとともに、一定時間内に誰が最も多く囚人を殺せるかという競争まで開催していた。戦後、彼自身は自らの手で100人を殺害し、その場に居合わせただけの殺戮も含めれば数千人に上ると認めている。

彼の在任期間中、少なくとも2万人が残虐な方法で殺された――他の資料では3万人とされる数である。「ファーザー・サタン(悪魔神父)」というあだ名が付けられたのも無理はない。彼自身、囚人に墓穴を掘らせ、その縁に座らせたうえで、大きなハンマーで殺害していたことを認めている。

「私は1942年10月末から1943年3月27日までスターラ・グラディシュカ収容所にいた。その間、大量虐殺は通常、収容所の外で行われていた」と彼は語っている。目撃者によれば、フィリポヴィッチは時に囚人同士を重い武器で殺し合わせることまで強要した。子供を殺すことを楽しんでいたともいう。

ミサの後の虐殺

1942年のクリスマス、彼はミサの後、4人の囚人をナイフで虐殺した。同じ行為を、自分に歌を歌わせたユダヤ人囚人に対しても行っている。歌が終わった瞬間に喉を掻き切ったのである。ある時は斧で56人のユダヤ人を殺して遺体を井戸に投げ込み、またある時は40人を射殺した。証人たちは、これ以外の殺人についても語っている。

特筆すべきはその冷酷さである。ある日、昼食中に立ち上がって囚人を一人殺害し、平然と席に戻って食事を続けたこともあったという。殺人の後は肘掛け椅子に座り、「正義は果たされた」と叫ぶのが常だった。

収監された医師の証言

体制への反対を理由にヤセノヴァツに収監されていたクロアチア人医師ニコラ・ニコリッチは、こう証言している。「彼の声は、あの体格とは裏腹に、どこか女性的でした」。ある時、ニコリッチは他の囚人たちとともに直立不動の姿勢を取らされ、フィリポヴィッチが「麻酔なしで他の囚人に手術を行う」のを見届けるよう命じられた。自ら2人を殺した後、彼は部下に「残りを片付けろ」と命じたという。

最期

1944年9月、軍法会議の一員として31人に絞首刑を宣告した。最終的に逮捕された彼は、1946年に戦争犯罪の裁判にかけられ、フランシスコ会の僧服を着たまま絞首刑に処されたのである。