戦争の陰で語られない捕虜殺害
あらゆる戦争と同様、第一次世界大戦においても民間人の死者、殺人、集団処刑が存在しました。ドイツ軍は、ベルギーやフランスでの民間人処刑(実際には小規模なものでした)について連合国側から繰り返し非難され、客船「ルシタニア号」撃沈事件やロンドン爆撃などによって「野蛮な殺人者」として糾弾され続けました。
こうした宣伝こそが、降伏した、あるいは降伏しようとしていたドイツ兵を、連合国側の兵士たち――とりわけイギリス軍とその自治領部隊――が冷血に殺害する「口実」として機能したのです。
「……ドイツの豚どもは、子供の手を切り落とし、女の胸を切り取るという恐ろしいことをフランスやベルギーでやってのけた」――あるイギリス兵は手紙の中で、連合国のプロパガンダに基づくドイツ人への憎悪をこう正当化しています。
クリスマス休戦が示した「本当の関係」
しかしこれらはすべて、根拠の薄い作り話でした。注目すべきは、1914年のクリスマスです。ドイツによるベルギー・フランス侵攻が最も新しく、民間人処刑の噂も生々しく記憶に残っていたこの時期、ドイツ・イギリス・フランスの兵士たちは塹壕から出てきて、互いに親交を深め、贈り物を交換し、サッカーの試合まで行ったのです。
では、なぜ1915年以降になると突然、連合国兵士たちの間にドイツへの憎悪が芽生え、「ドイツ軍の暴行」が思い出されるようになったのでしょうか。実は1914年のこの自発的な友好行為は連合国の上層部に衝撃を与え、二度と同様の事態が起こらないよう対策が講じられることになりました。憎悪を意図的に育てることが、その手段の一つだったのです。
兵士たちの証言
「ドイツ兵たちは膝をつき、妻や子供の写真を頭上に掲げていた。それでも我々は全員を殺した」――あるイギリス兵はこう報告しています。「我々は冷血に殺した。できるだけ多く殺すことが我々の務めだったからだ。私はルシタニア号のことを考えていた」と彼は書き残しています。
別のイギリス兵はこう述べています。「我々はドイツ兵捕虜10名を捕らえた。ちょうどルシタニア号撃沈の知らせを受けたばかりだったので、銃床で殴って全員を殺した」。さらに別の兵士は、「ハン(イギリス兵がドイツ人を呼んだ蔑称)が両手を挙げて走っているのを見た……助命を叫んでいた。私は即座に彼を撃った」と綴っています。
上からの命令:「捕虜を取るな」
多くのイギリス兵や自治領部隊の兵士は、残された手紙や証言、回想録の中で、上官からしばしば「捕虜を取るな」と命じられていたことを詳細に語っています。ある兵士は、ソンム攻勢直前のある旅団長の言葉を引用しています。「捕虜は取れ。だが俺の目には見せるな……」。
第17ハイランド軽歩兵連隊には、捕虜を一切取らないよう正式な命令が出されていました。「敵に慈悲を与えるな。捕虜を取るな」――命令書にはそう明記されていました。捕虜殺害の公式な言い訳は、捕虜を見張る人員を割けないこと、あるいは兵士たちが自分の配給食料を捕虜と分け合えば飢えてしまう、というものでした。
「明日の朝、お前たちは戦闘に出る。もし捕虜を取れば、お前たち自身の配給が減らされる。だから捕虜を取るな。殺せ。捕らえれば奴らはお前たちの食料を食べることになる」――攻撃準備中のロイヤル・ダブリン・フュージリアーズに対し、イギリス軍の従軍牧師はこう説いたといいます。
300人の捕虜が犠牲になったイープルの惨劇
「ロイヤル・スコッツ連隊は約300人のドイツ兵捕虜を捕らえた。将校たちは兵士たちに食料を分け与えるよう命じた。するとスコットランド兵たちは一斉に彼らを殺害した……数分のうちに、ドイツ兵の血がスコットランド兵の足元を覆い尽くした」――1915年イープルで起きた出来事を目撃した兵士はこう証言しています。
全体像の中で見るべき事実
以上の事例は、当時存在していた空気と、それを意図的に定着させようとした試みを記録するものです。とはいえ、殺害された捕虜の数は、戦闘・酷使・病気による死者と比べればごくわずかでした。降伏した大多数のドイツ兵は収容所へ送られ、比較的良い扱いを受けています。
一方で、ドイツ軍側にも捕虜の殺害は存在しました。同様にオーストリア軍はセルビアで凄まじい暴虐を行い、東部戦線でも程度の差こそあれ同様の行為を行っています。またドイツ軍による集団処刑や村の焼き討ちは、主に開戦初期、後方への蜂起を恐れたために発生したものです。
「ルシタニア号」の真実
さらに付け加えれば、連合国のプロパガンダがドイツの野蛮さの象徴として確立することに成功した「ルシタニア号」は、無垢な豪華客船などではありませんでした。同船は国際規則に違反し、(公式には)750トンの軍需品を積載していたのです。2008年には、ダイバーたちが実際にその沈没船から弾薬を回収しています。