
クロアチアは、1941年4月のユーゴスラビア王国崩壊後に誕生した、イタリアとドイツの衛星国家である。指導者アンテ・パヴェリッチは、枢軸国の盟主であるイタリアとドイツを支援するため、クロアチア人武装部隊の編成を命じた。
イタリアの領土的野心
イタリアのユーゴスラビアに対する領土的野心は、ムッソリーニが政権を握るはるか前、1918年頃からすでに存在していた。ローマ帝国の復活という夢を抱いた独裁者ムッソリーニこそが、ダルマチア沿岸や国境地帯の併合を強く望んでいた人物だった。しかし、1941年4月6日に枢軸国がユーゴスラビアへ侵攻すると、クロアチア人部隊は戦闘を放棄してしまった。
パヴェリッチ政権の罪
クロアチアに押しつけられたパヴェリッチ政権は、数百万人規模の虐殺の責任を負っている。犠牲者の大半はセルビア人だったが、ユダヤ人やロマ(ジプシー)も含まれていた。同時にこの政権は、国家領域から非クロアチア人を一掃することを第一の目的とし、イタリア・ドイツ両同盟国の軍事的支援を第二の目的とする武装勢力を編成したのである。
イタリアへの奉仕
1941年7月、イタリア最高司令部はパヴェリッチに対し、東部戦線でイタリア軍と共に戦うクロアチア「義勇軍(レギオン)」の編成を要求した。パヴェリッチはこの要請に必ずしも熱心ではなかったが、純粋に政治的な理由から同意を決めた。こうして7月26日、クロアチア行政当局は軽自動車化歩兵大隊(LMT)の編成を命令した。
部隊の編制
LMTは組織的に黒シャツ隊(カミーチェ・ネーレ)の序列に組み込まれた。その兵力は将校45名、下士官70名、兵卒1,100名。編成内容は小銃中隊3個、機関銃中隊1個、81mm迫撃砲中隊1個、補充中隊1個、さらに65mm山砲4門を擁する護衛砲兵からなっていた。
エゴン・ジトニク中佐が指揮官に任命され、部隊は訓練のためクロアチア北部へ移動した。しかしイタリア側の兵站の不備により、LMTは当地に長期間留まることを余儀なくされた。実際、遊兵となるのを避けるため、潜伏していた旧ユーゴスラビア兵やパルチザンに対する掃討作戦への参加が決定された。
東部戦線へ
LMTが移動を開始したのは12月17日のことだったが、行き先は東部戦線ではなかった。部隊はまずイタリア本土へ送られ、新たな武装を受け、3ヶ月間の訓練を施された。そしてついに1942年4月16日、大隊はウクライナの東部戦線に到着し、イタリア第3快速師団「アメデオ公爵」(MI)に配属された。ここで装備の供給を受け、小型乗用車3台、オートバイ6台、トラック44台、そして軍馬108頭が支給された。
5月11日、LMTはイタリア第63「タリアメント」黒シャツ大隊の増援を試みた際に初陣を飾り、この戦闘で最初の損害を被った。
ウクライナでの戦闘
大隊はその後もウクライナで戦い続けた。1942年7月11日、第3快速師団はイタリア第35軍団の指揮下に入った。翌12日、大隊はソ連軍への攻撃で際立った活躍を見せ、敵陣奥深く約19kmまで前進する戦果を上げた。作戦は引き続き順調に進み、7月28日にはドネツ川を渡河して東方への前進を続けた。
セラフィモヴィチの攻防
8月20日、LMTはドン川沿いのセラフィモヴィチでソ連軍の強力な反撃を受けた。クロアチア兵たちは激しい圧力に耐え、攻撃を撃退し、ソ連兵捕虜46名を確保することに成功した。しかしその代償は大きく、大隊は戦死27名、負傷90名という損害を出した。それでもイタリア軍はクロアチア兵の戦意を高く評価し、大隊は第35軍団司令官からの表彰を受けた。
全滅への道
イタリア第8軍はドン川沿いの陣地を1942年12月まで保持していたが、ソ連軍の猛攻を受けて崩壊した。12月19日、クロアチア大隊はチル川戦線の210高地と168高地に展開した。そこでLMTは完全に包囲され、文字通り最後の一人まで2日間戦い抜いた。LMTの生存者は一人もいなかった。
その後、イタリアは新たなクロアチア人部隊を編成したが、これらは対パルチザン作戦にのみ従事することとなった。