古代の歴史

英雄中尉と部下24名の壮絶な死闘――最期の瞬間まで貫いた忠誠心

英雄中尉と部下24名の壮絶な死闘――最期の瞬間まで貫いた忠誠心

1945年1月、イギリス軍は当時ビルマ(現ミャンマー)領だったアラカン地方で、日本軍に対する大規模な攻勢を開始した。作戦の要諦は、精鋭である第3コマンドー旅団を日本軍陣地の南方、カンガウ周辺に投入し、同地に展開する日本軍第54歩兵師団の退路を断つことにあった。

イギリス軍はまず、戦略的に極めて重要な「170高地」を占領した。この高地を押さえれば、日本軍に強いられる撤退経路を火力で支配することができる。高地の防衛と包囲網の保持という任務は、第3旅団隷下の第1コマンドーが担うことになった。

300名超の日本兵が突撃

予想どおり、日本軍は大規模な反撃に出た。高地北側の防御線の一角は、若きジョージ・ノーランド中尉が指揮する第4小隊――将校を含む25名――が守っていた。

1945年1月31日、日本軍は迫撃砲で小隊の陣地への砲撃を開始し、機関銃火とともに陣地を徹底的に掃討した。それでもノーランド中尉は弾雨など意に介さず、塹壕から塹壕へと駆け回り、部下たちを鼓舞し続けた。突然、悲鳴が響いて射撃が止んだ。次の瞬間、300名を超える日本兵が一斉に小隊の陣地へ突撃してきたのだ。

勇敢な中尉の模範に励まされた少数のイギリス兵たちは、見事な戦いぶりを見せた。ノーランド中尉は真っ先に火線へ飛び出し、塹壕から塹壕へ移動しながら弾薬を行き渡らせ、全身を敵火にさらしながら手榴弾を投げ続けた。

10メートルの距離で機関銃を引き継ぐ

やがてブレン軽機関銃の射手が被弾した。ノーランド中尉は即座に塹壕へ飛び込み、自ら機関銃を握って射撃を開始した。地形の傾斜のため塹壕内からの射撃は不可能で、彼は遮蔽物を頼りに身を乗り出し、わずか10メートルまで迫った日本兵たちに弾丸を浴びせ続けた。中尉が射撃を止めなかったことで、負傷者の応急処置と後送が実現したのである。

機関銃の受け継ぎを試みた2名も相次いで負傷したため、ノーランド中尉は持ち場を離れなかった。ようやく2名の部下が日本軍の火線をかいくぐって無傷で辿り着き、銃を引き継いだとき、彼は初めてその任を解かれた。

日本軍の第一次攻撃は撃退された。しかし、より苛烈な第二次攻撃がすぐに襲いかかる。今度ノーランド中尉が掴んだのは50mm迫撃砲だった。彼はこれを小銭のごとく扱い、敵に立ち向かった。最初の一発で6名の日本兵を無力化したという。

迫撃砲弾を使い果たすと、今度は小銃を手に取り戦いを継続。さらにトミーガン(短機関銃)を見つけると、日本兵を次々となぎ倒していった。自身も負傷しながら、致命傷を負うその瞬間まで発砲をやめず、数多くの敵を倒し続けた。

12時間の死闘、そして22歳の最期

ノーランド中尉の英雄的な行動は小隊全員を奮い立たせた。24名のうち14名が死傷する絶望的な状況の中でも、部下たちは狂気じみた日本軍の攻撃を12時間にわたって食い止め抜いた。やがて増援が到着すると、イギリス軍は勇敢な中尉とその部下たちが守り抜いた陣地から反撃に転じ、日本軍第54歩兵師団の退路遮断に成功した。

ノーランド中尉は、わずか22歳で戦死した。イングランド南東部ケント州の出身で、王立ノーフォーク連隊に入隊し、そこから第1コマンドーへと転属していた。その犠牲に対し、イギリス軍最高の勲章であるヴィクトリア十字章(Victoria Cross)が追贈され、叙勲の辞では、彼の顕著な勇気と、最後まで部下を鼓舞し続けた指揮官としての模範的行動が高く評価された。

英雄中尉と部下24名の壮絶な死闘――最期の瞬間まで貫いた忠誠心