
アスピンザは、現在約2,800人が暮らすグルジア(ジョージア)南西部の小さな町です。しかし1770年、この地で歴史に残る激戦が繰り広げられました。
露土戦争とカトリーナ2世の野望
1769年、ロシア帝国とオスマン帝国は再び干戈を交えていました。「大帝」と称される女帝カトリーナ2世とその側近たちは、トルコに対して新たな戦線を開くことを画策していました。
その一つがギリシャでの戦線(オルロフの乱)です。ここでロシア人はギリシャの革命家たちを「売り」、結果として彼らを見捨てることになりました。もう一つの戦線がグルジアです。トルコもロシアも、グルジアを自国の領域に取り込もうとしていました。
カトリーナはグルジアでトルコに挑むため、国王エレクレ(ヘラクレス)2世との協定を成立させ、ロシア軍に仕えるドイツ出身の将軍ゴットリープ・トートレーベン率いる、わずか1,200人の部隊を派遣しました。
アツクリ包囲と最初の亀裂
ロシア軍はエレクレ2世の小規模な軍勢と合流し、1770年3月、共にトルコ軍への進撃を開始しました。4月14日、彼らはトルコの要塞アツクリを包囲します。
しかしここで問題が発生しました。エレクレは、トルコ占領下のグルジア領における行政中枢アハルツィヘを迅速に攻略しようとしたのです。ところがドイツ人将軍トートレーベンはこれに従うどころか支援すら拒み、要塞に留まり続けました。
9,500人のオスマン軍が動く
その間、アハルツィヘのパシャ(総督)ゴラ・パシャは兵力を結集し、反撃の準備を着々と進めていました。ゴラ・パシャの軍は約9,500人。敵の約3倍という圧倒的な数的優位を背景に、彼は楽観的に事態を見通すことができました。ゴラ・パシャはアツクリの包囲を解くべく移動を開始します。
この報を受けたトートレーベンは包囲を解き、部下を率いて逃走。グルジア人を見殺しにしたのです。なぜ彼がこのような行動に出たのかは、今日なお謎に包まれています。
多くの歴史家は、カトリーナの狙いは、トルコにグルジア人を叩き潰す「汚れ仕事」を代行させた上で、ロシアが解放者として登場することにあったと指摘しています(1944年のワルサワ蜂起時にスターリンが取った態度と同じ構図です)。
撤退からの猛反撃
ともあれ、ロシアの裏切りを知ったエレクレは急遽撤退に移りました。トルコ軍は退路を断ち切ろうと執拗に追撃します。
だがエレクレは大胆にも反撃へと転じました。退却するのではなく先制攻撃を仕掛け、1,500人規模のトルコ軍先鋒を粉砕したのです。グルジア軍は捕虜を一人も取りませんでした……
増水するクラ川、唯一の橋を断つ
とはいえ、数的劣勢は依然として圧倒的でした。それでもエレクレはひるみません。トルコ軍をクラ川の渡河に誘い込み、山岳地帯の雪解け水で氾濫していた川を渡れる唯一の橋を、4月20日の夕べ、少数のグルジア兵部隊が破壊したのです。
こうしてトルコ軍は、前面にはグルジア軍、背後には荒れ狂う川という絶体絶命の状況に追い込まれました。夜明けとともにエレクレは中央の部隊を自ら率いて突撃します。少数のグルジア兵たちはトルコ軍と激烈な白兵戦を演じ、多くの犠牲を払いました。
勇気が生んだ奇跡
一時はトルコ軍が優勢に見える場面もありました。しかしエレクレとその将軍たち――ギオルギ・バトニシヴィリ、ダヴィト・オルベリアーニ――の勇気と、兵士たちの並外れた闘志が奇跡を起こしたのです。トルコ軍は総崩れとなって敗走しました。
ゴラ・パシャは討ち死にし、配下の約3,000人が戦死、あるいは渡河を試みて溺死しました。まさに驚嘆すべき大勝利でした。


エレクレ2世