
ムッソリーニの復活とイタリア社会共和国軍
1944年12月に実施された「冬の嵐(ウィンターゲヴィッター)」作戦――イタリア側では「ガルファニャーナの戦い」と呼ばれるこの攻勢は、第二次世界大戦のイタリア戦線における枢軸軍による「クリスマス攻勢」でした。同時にこれは、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍に対し、いまだムッソリーニに忠誠を誓うわずかなイタリア兵たちが与えた、最大級の屈辱ともなったのです。
1943年に救出されたベニート・ムッソリーニは、ドイツ軍が支配するイタリア北部に「イタリア社会共和国(RSI)」を樹立しました。彼はさらに軍隊の再建にも着手し、その指揮権をロドルフォ・グラツィアーニ元帥に委ねました。
「冬の嵐」作戦の計画
1944年12月、ドイツ軍がアルデンヌで反攻(バルジの戦い)を開始すると、独伊両軍の司令部はイタリア戦線でも同様の攻勢を実施することを計画します。当初の目標は、ルッカ、ピサ、リヴォルノといったトスカーナ地方の主要都市の奪回でした。
この攻勢のため、イタリア軍は「サン・マルコ」師団と「モンテ・ローザ」師団の2個師団を編成しました。しかし、最終的に動員できたのは準備の整った兵力だけであり、計画されていた戦車部隊や航空支援は実現しませんでした。結局、攻撃に参加したのはマリオ・カルローニ大佐が指揮する約9,100名の将兵(大半がイタリア人)のみで、火力支援も各種火砲約100門にとどまりました。
作戦全体の統括には、ドイツ軍のフレッター=ピコ将軍が当たりました。兵力不足のため計画は縮小され、新たな目標は、リミニ方面で戦うドイツ軍を救援するべく、アメリカ第92歩兵師団を25km押し戻すことに変更されました。
対面に展開していたのは、1944年11月以降ガルファニャーナ地域に駐屯していた、エドワード・アルモンド少将率いるアメリカ第92歩兵師団です。
「冬の嵐」作戦の開始
連合軍側も、アルデンヌでのドイツ軍反攻を受けて、イタリア戦線での枢軸軍の動きを警戒していました。そこで、インド第8歩兵師団所属の第19旅団と第21旅団をもって第92歩兵師団の増援に充てることを決定します。両インド旅団は、アメリカ第85歩兵師団の2個連隊とともに、第92歩兵師団の後方に第二防御線を構築しました。
12月26日、ドイツ軍3個大隊の支援を受けたイタリア軍が攻撃を開始しました。合計9,100名の枢軸軍将兵(大多数はイタリア人)は、火砲140門、戦車120輌、航空機160機以上に支えられた、倍以上の連合軍と対峙することになったのです。
攻撃初日は厚い雲に覆われ、連合軍の航空部隊は活動できませんでした。事前の兆候があったにもかかわらず、第92歩兵師団の兵士たちは完全な不意打ちを食らいました。攻撃部隊は3個縦隊に分かれて進撃し、それぞれ3個大隊と砲兵連隊の支援を受けました。左翼縦隊は瞬く間にソンモコロニア村を占領してアメリカ兵を駆逐し、続く先遣部隊が敵をベッビオ村とスカルペッロ村へと押し込みました。中央縦隊も対面のアメリカ軍を撃破してセルキオ川流域まで追撃し、フォルナチ村も確保しました。
右翼縦隊はモラッツァーノ村を容易に攻略しましたが、ブルシャーノでは撃退されます。それでもカロミーニを占領し、激戦の末にベルガモリも手中に収めました。そして12月27日の朝、イタリア軍は最終目標であるピアン・ディ・コレッリアをも占領し、アメリカ第92歩兵師団を敗走させたのです。ただし、第二防御線の存在により、連合軍の戦線が分断されることはありませんでした。
アメリカ軍にとって屈辱的な敗北
それでも、この敗北はまぎれもなく屈辱的なものでした。戦車どころか航空支援すらない、貧弱に武装した一握りのイタリア兵によって、アメリカ軍部隊が潰走させられたのは、同国の参戦以来初めてのことだったからです。
攻撃は12月27日の夕刻に中止されました。イタリア軍と少数のドイツ同盟部隊は奥行き25kmまで前進し、300名を超えるアメリカ兵の捕虜を獲得しました。第92歩兵師団の総損害は1,300名を超えています。
枢軸軍は12月30日、無用な損耗を避けるために占領地を放棄しましたが、この勝利は記念碑的な出来事として歴史に残りました。イタリア軍は新たに確保した陣地を、1945年3月まで保持し続けたのです。