
運命は時に奇妙ないたずらを仕掛け、無名の男を一躍名声の座へと押し上げることがある。ヨハン・フォン・シュポルク(Johann von Sporck)は、まさにそのような男だった。1600年、ドイツ・パーダーボルンの小さな農場に生まれた彼は、三人の兄弟の助けもあって良好な教育を受けたようだ。兄弟の一人は地元の司教兼領主に仕え、残る二人はバイエルン軍に勤務していた。20歳のとき、彼自身も太鼓手としてバイエルン軍に入隊する。兄とともに騎兵として戦った有名な白山の戦い(1620年)では、兄が戦死を遂げた。
三十年戦争を駆け抜けた男
シュポルクは三十年戦争を通じて戦い続け、その勇猛ぶりで頭角を現し、1639年には大佐に昇進した。一介の兵士から身を起こした者としては、まことに異例の栄達である。1643年には自らの騎兵連隊を編成し、その指揮官として1645年のトゥットリンゲンの戦いでフランス軍を撃破した。同年、ヤンカウの戦いでも活躍を見せたが、重傷を負いスウェーデン軍の捕虜となった。1646年に釈放されると少将に昇進し、翌年には中将に進んでオーストリア(皇帝)軍へ転属した。
「トルコ人虐殺者」の異名
ウェストファリア条約によって悲惨な三十年戦争が終結すると、シュポルクは皇帝から下賜された領地へ引きこもった。しかし1657年には軍に復帰し、北ドイツでスウェーデン軍と戦い、1661年にはトランシルヴァニアで初めてトルコ軍と交戦している。トルコ軍が帝国領に侵攻すると、シュポルクは名将レイモンド・モンテクッコリの指揮下で帝国騎兵の先頭に立ち、1664年に同名の大会戦が繰り広げられたザンクト・ゴットハルト修道院付近に陣を構えた。
シュポルクはキリスト教連合軍の右翼を担い、ハンガリーのラーバ川沿いの峠道を守備していた。彼の指揮下にはドイツ胸甲騎兵、「フサールの祖先」とも称される軽騎兵「クロアチア騎兵」約2000、そして少数の歩兵があった。ザンクト・ゴットハルトの戦いは、大きく三つの局面に分かれて展開した。まず、ドイツ人、オーストリア人、フランス人、クロアチア人、セルビア人、ハンガリー人らからなるキリスト教側を6対1で数的に圧倒するトルコ軍が、中央と左翼から川を渡河してきたのである。
キリスト教軍の総司令官モンテクッコリ元帥は反撃に出たが、わずかな兵力では数千の敵に呑み込まれた。続く新たな反撃が一時的にトルコ軍を食い止め、態勢を立て直したモンテクッコリは総反撃を下令した。そのときシュポルクは馬から降り、兜を脱ぎ、ひざまずいてこう祈ったのである。「偉大なる総司令官よ、もしキリストの子らをお助けになるおつもりがないならば、せめてトルコの犬どもだけはお助けくださいますな。ただご覧になっておれば、きっとお喜びになりましょう!」
祈りを終えるや否や、彼は兜をかぶり、馬に飛び乗り、剣を抜いて真っ先に敵陣へ突撃した。このときすでに64歳!部下たちは熱狂的に彼に続き、怒濤のごとくトルコ軍に殺到した。ムスリム軍は数において優勢だったが、それでもシュポルクとその部下たちは3時間余りにわたり衰えることなく戦い抜き、ついにトルコ軍は「崩壊」した。敵は乱れに乱れ、見るも無惨な敗走へと逃げ去ったのである!
シュポルクの軽騎兵は敗走する敵を執拗に追撃し、しばしの間屠り続けた。シュポルク自身も、斬り伏せた敵の血で真っ赤に染まっていた。史料によれば、彼の兜と胸甲はトルコ人の血で滴っていたという。彼の祈りは……見事に成就したのだ。
戦後、シュポルクは元帥に昇進し、ハンガリーの平定事業に従事した。その後も蘭戦争でフランス軍と戦い、高齢を押して常に最前線に立って戦う姿で名を馳せた。1676年に現役を退き、3年後にこの世を去った。彼は同時代随一の騎兵将軍、そして「トルコ人の天罰」と広く認められたのである。
文:パンテリス・D・カリカス

ザンクト・ゴットハルトの戦い

シュポルクの鎧と剣

トルコ軍への大反撃を前に祈りを捧げるシュポルク

指揮杖を手にしたシュポルク