エドワード・ジョン・エア(Edward John Eyre、1815年〜1901年)は、19世紀のオーストラリア探検史に名を刻んだイギリスの探検家です。特に1840年から1841年にかけて、南オーストラリアのアデレードから西オーストラリアへ向かった大陸横断遠征で広く知られています。この遠征では想像を絶する苦難が待ち受けており、エアは多くの仲間を失いながらも目標を達成しました。
生い立ちとオーストラリア移住
エアは1815年、イングランド北部のヨークシャーに生まれました。1833年、18歳でオーストラリアへ移住し、牧場で牧夫(stockman)や監督者(overseer)として働きながら、開拓地での生活経験を積み重ねていきました。
1840年、南オーストラリア政府は大陸内陸部を探検する遠征隊の指揮官にエアを任命しました。当時、オーストラリア大陸の内陸はほとんど未知の領域であり、新たな放牧地の発見が強く期待されていたのです。
1840〜41年の大陸横断遠征
1840年6月、遠征隊はアデレードを出発しました。一行はエア本人、ヨーロッパ人隊員6名、そしてアボリジニの案内人2名で構成されていました。当初の目的は大陸北部の内陸探索でしたが、厳しい自然環境のため計画の変更を余儀なくされ、一行は北進したのち西へと進路を改めました。
旅の途中、食料と水は常に不足していました。乾燥した不毛の大地が続くなか、一行は先住民アボリジニとの衝突にも何度も見舞われました。さらに、一部の隊員との意見対立や性格の不一致にも悩まされ、遠征は肉体的にも精神的にも極めて過酷なものとなりました。
それでもエアは決して諦めませんでした。1841年4月、ついに西オーストラリアのアルバニー(キング・ジョージ・サウンド)へ到達します。これによりエアは、オーストラリア大陸を南岸沿いに東から西へと踏破した最初のヨーロッパ人となったのです。総行程は3,200キロメートル(約2,000マイル)を超える壮大な旅でした。
遠征後の人生
エアは1843年にイギリスへ帰国し、遠征の記録を『中央オーストラリア発見遠征日誌(Journals of Expeditions of Discovery into Central Australia)』として出版しました。この本はベストセラーとなり、エアは一躍有名な探検家となりました。
その後、エアは植民地行政の道へ進みます。1862年から1865年にかけてジャマイカ総督を、1868年から1873年にかけてニュージーランド総督を務めました。ただし、ジャマイカ総督時代の1865年、モラント・ベイ反乱への対応をめぐって本国で激しい批判を受け、職を退くことになりました。
晩年はイングランドで静かに暮らし、1901年にロンドンで86歳の生涯を閉じました。オーストラリアでは、南オーストラリアのエア湖(Lake Eyre)やエア半島(Eyre Peninsula)など、彼の功績を記念した地名が今も数多く残されています。