1968年8月21日──戦車のエンジン音で目覚めたプラハ
1968年8月21日の早朝、プラハの市民が目を覚ますと、ワルシャワ条約機構(WTO)加盟国軍の戦車が、市内の要所を次々と占拠していた。前夜から始まったこの軍事介入は、同年1月5日にアレクサンデル・ドゥプチェクがチェコスロバキア共産党第一書記に就任して以来、約7か月にわたって進められてきた「人間の顔をした社会主義」の実験に、強制的な終止符を打つものだった。
ドゥプチェク政権下のチェコスロバキアでは、同年4月9日に「チェコスロバキアの社会主義への道」を描く行動綱領が発表され、報道の自由や経済改革への道が少しずつ開かれていった。さらに6月27日には、作家や科学者ら2000人が署名した宣言文書(いわゆる「二千語宣言」)が公表され、さらなる自由の拡大と民主改革の加速が国民に呼びかけられた。
しかし、この動きはモスクワにとって看過できるものではなかった。介入にはソ連のほか、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの軍隊が参加し、抗議する市民の間に多くの犠牲者が出た。ドゥプチェク本人も逮捕されてモスクワへ連行され、翌年には党第一書記の座を追われることとなる。
「自由の小さな穴」が巨大な亀裂になる
この一連の経緯は、全体主義体制においては、自由という小さな穴が瞬く間に巨大な亀裂へと広がり、体制そのものを崩壊の危機に陥れかねない、というテーゼを雄弁に裏付けている。ソ連指導部は1956年10月〜11月のハンガリー動乱の際にすでにこの法則を痛感しており、以後、ワルシャワ条約機構加盟国が市民の政治・経済・社会生活の新しい組織原理を実験することを、断固として許さなかった。
まさにそれゆえに、レオニード・ブレジネフは「制限された国家主権」の教義──いわゆるブレジネフ・ドクトリン──を定式化した。その骨子は、「ある人民民主主義国家に深刻な問題が発生すれば、それはすべての人民民主主義国家にとっての問題であり、問題が他国へ波及する前に、あらゆる手段をもって解決しなければならない」というものである。ソ連指導部にとって、ソ連型社会主義の建設方式や権力モデルに異議を唱えるものは、すべて「問題」以外の何ものでもなかったのだ。
「プラハの春」の屈辱的な結末が証明したこと
「プラハの春」の屈辱的な結末は、「人間の顔をした社会主義」など存在しえなかったことの、歴史による証明となった。この「人道的」な社会主義を、今なお追い求め続ける不治のロマンチストたちがいるかもしれない。だが、冷徹な事実は、そうした彼らの彷徨が、結局のところ一種のセラピーにすぎないことを物語っている。彼らは「現存した社会主義」が残したディストピアの遺産の中で、ユートピアを探し続けているにすぎないのである。
歴史が突きつけた中心的なジレンマは、当時も今も変わらずただ一つである。すなわち、「社会主義的野蛮か、それとも自由主義的ブルジョア民主主義か」という問いである。
ユーロコミュニズムの終焉が遺した教訓
その動かぬ証左となったのが、既存の社会主義体制の崩壊とほぼ同時に瓦解していったユーロコミュニズムの潮流である。イタリア、フランス、スペインなどの各国共産党が掲げたこの路線の正当化は、見せかけにすぎなかった。ユーロコミュニズムは、マルクス主義理論そのもの──すべての悪の母体──を疑うことは最後までなく、せいぜいその「見直し」を口にしていたにすぎない。その指導者たちは、社会主義的野蛮の病巣が理論そのもの、すなわち犯罪性を内包した理論にあるのであって、その運用の失敗にあるのではないと認めることは、ついになかったのである。
文=サキ・ムムジー(出典:DAILY)