「ポウハタンはなぜジェームズタウンのイギリス人入植者に援助を行ったのか?」――この問いには、まず重要な訂正が必要です。歴史的に見ると、ポウハタン首長が入植者に一貫して援助を与え続けたわけではありません。むしろ両者の関係は、ごく初期の限定的な交易から次第に敵対へと傾き、最終的には「アングロ・ポウハタン戦争」と呼ばれる一連の武力紛争へと発展していったのです。
ポウハタンとはどのような存在だったのか
ポウハタン(本名ワフンスナコック)は、17世紀初頭に現在のアメリカ・バージニア州東部一帯を支配していた強力な先住民連合の最高首長です。1607年にイギリス人がジェームズ川の河口付近にジェームズタウンを築いたとき、その土地はすでにポウハタン連合の勢力圏内にありました。
初期の交流は「援助」ではなく「交易」
入植直後の数年間、ポウハタン側はトウモロコシなどの食料を、イギリス人の持つ銅製品や鉄製の道具・武器などと交換することがありました。しかし、これは慈善的な援助ではなく、あくまで双方の利害に基づく取引でした。入植者の数が増加し、彼らが周辺の村や食糧備蓄に執拗に食料を要求するようになると、ポウハタンの姿勢は急速に硬化していきました。
襲撃と包囲、そして戦争へ
1609年からの厳しい冬、「飢餓の時代(スターヴィング・タイム)」と呼ばれる時期には、ポウハタン側は食料の供給を絶ち、入植地への攻撃や包囲を強めました。追い詰められた入植者たちも報復として先住民の村を襲撃するなど、暴力の応酬がエスカレートし、この対立は1610年頃から始まる第一次アングロ・ポウハタン戦争へと発展しました。
第一次アングロ・ポウハタン戦争(1610〜1614年)
入植者側の攻撃的な軍事作戦により、先住民側の村やトウモロコシ畑が次々と破壊されました。戦争は、ポウハタンの娘ポカホンタスが入植者のジョン・ロルフと結婚した1614年に、ひとまずの和平を迎えます。
第二次以降の戦争
1622年には、ポウハタンの死後に指導権を握った弟オペチャンカノーが大規模な蜂起を指揮し、入植者の約4分の1が犠牲となる奇襲が行われました。これが第二次アングロ・ポウハタン戦争の発端です。さらに1644年には第三次の戦争が勃発し、最終的に先住民側の敗北が決定づけられ、バージニアにおけるイギリス支配が確立しました。
まとめ
ポウハタンがジェームズタウン入植者に「援助」を与えたというのは、不正確な理解です。初期には食料をめぐる取引が存在したものの、関係は急速に悪化し、襲撃と報復を繰り返した末に長期に及ぶ戦争へと至りました。この一連の対立は、北米におけるヨーロッパ人の植民活動と先住民社会との衝突を象徴する出来事として位置づけられています。