マクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien Robespierre)は、1794年7月28日、ギロチンによって処刑されました。フランス革命の中心人物として「恐怖政治」を主導した彼は、かつては民衆から絶大な支持を受けていましたが、最後には自らの政敵たちによるクーデターによって権力の座から転落し、自らが推し進めた処刑台でその生涯を閉じることとなりました。
フランス革命の指導者としてのロベスピエール
ロベスピエールは1758年にアルトワ地方アラスで生まれ、弁護士として頭角を現した後、革命期の国民公会でジャコバン派の指導的立場に就きました。その徹底した信念と雄弁さから「革命に汚されぬ人(不可侵の人)」と呼ばれ、ルイ16世の処刑や共和政の樹立に大きな役割を果たしました。
しかし、1793年から始まった「恐怖政治」の時代において、反革命の疑いがある者を次々と断頭台へ送ったことで、彼の名は恐怖の象徴ともなっていきました。
テルミドール9日のクーデター
1794年に入ると、処刑の数が増える一方であり、国民公会内では「次は自分が粛清されるのではないか」という恐怖が広がり始めました。同年7月27日(革命暦テルミドール9日)、議会でロベスピエールに対する批判が一斉に噴出し、彼とその支持者たちは逮捕されます。
逮捕後の顛末と処刑
逮捕された夜、ロベスピエールはパリ市庁舎に身を隠そうとしましたが、政府軍に包囲された際、銃撃により顎を負傷しました。これが自殺未遂だったのか、他者による発砲だったのかは今も明確になっていません。
翌日の1794年7月28日、彼は裁判を経ることなく、弟オーギュスタンやサン・ジュストら同志21名とともにギロチンにかけられました。当時34歳でした。処刑当日、群衆はかつての英雄の最期を見届けるために集まりました。
死後の影響
ロベスピエールの死は「テルミドールの反動」と呼ばれる転換点となり、過激な恐怖政治は終焉を迎えました。彼の評価は現在でも分かれており、平等と共和制の理想を追求した革命家と見るか、独裁的な恐怖政治の首謀者と見るか、歴史家たちの間で議論が続いています。