古代の歴史

なぜイギリスはジェームズ2世の後継者ではなく、ウィリアムとメアリーを統治者に選んだのか?――名誉革命の背景を解説

1688年の「名誉革命」は、イギリス史における重大な転換点となりました。当時のイギリス国民は、現職国王ジェームズ2世やその血縁による継続統治ではなく、オランダ総督ウィリアム(ウィレム3世)とその妻メアリー(メアリー2世)を新しい統治者として迎えることを選びました。なぜ such な決断が下されたのでしょうか。その背景には、宗教的・政治的な複数の要因が絡み合っていました。

宗教的・政治的な理由

1. 絶対主義への恐れ

ジェームズ2世は強い権威主義的な傾向を示し、多くの人々から専制的と見なされる統治を行っていました。イギリスの人々は、長い歴史の中で築き上げてきた伝統的な権利や自由、そして議会の権限が王権によって侵食されることを深く恐れていました。

2. カトリック信仰への懸念

ジェームズ2世自身は熱心なカトリック教徒であり、その政策はイングランド宗教改革によって確立されたプロテスタント信仰よりもカトリックを優遇するものでした。大多数を占めるプロテスタントの国民は、カトリック勢力の支配強化や、国教会に従わない非国教徒への迫害の可能性を強く懸念していました。

3. 排除危機(エクスクルージョン・クライシス)

ジェームズの兄であるチャールズ2世には嫡出の子どもがいませんでした。そのため、王位継承順位はカトリック教徒であることが周知のジェームズに移ることになりました。これに対抗し、イングランド議会はジェームズを王位継承から除外しようと「排除法案」の成立を図りましたが、最終的には否決されてしまいました。

ジェームズ・フランシス・エドワードの誕生

嫡出性をめぐる疑惑

1688年6月10日、ジェームズの妻メアリー・オブ・モデナが男児(後のジェームズ・フランシス・エドワード、いわゆる「老僭王」)を出産しました。ところが多くの人々は、この出産自体が偽装されたものだと信じ込み、新生児はジェームズの正当な相続人ではないと考えていました。この疑惑は、カトリック王朝の存続を決定づける出来事として受け止められ、ジェームズの政治的立場を一層弱める結果となりました。

ウィリアムとメアリーへの招請

1. プロテスタントの希望の星

オランダの総督(スタットホルダー)であるオラニエ公ウィレムは、ジェームズ2世と最初の妻アン・ハイドとの間に生まれた長女メアリーと結婚していました。ウィリアムは敬虔なプロテスタントであり、夫妻はカトリックのジェームズに代わる有力な選択肢として広く支持されていました。

2. 名誉革命の勃発

こうした状況の中、イギリスの貴族や政治家たちは、ジェームズを廃位するためにウィリアムとメアリーをイングランドへ招請しました。この招請が「名誉革命」の発端となり、その結果、ジェームズ2世は打倒され、ウィリアムとメアリーが共同統治者として即位することになったのです。革命後には「権利章典」が制定され、議会主権の原則が確立されました。

まとめ

イギリス国民がジェームズ2世の後継者ではなくウィリアムとメアリーを統治者として望んだ理由は、カトリック支配への宗教的懸念、絶対主義的統治への恐怖、王子誕生をめぐる嫡出疑惑、そしてイングランドの多数派の宗教観と一致するウィリアム夫妻のプロテスタント的立場にありました。これらの要因が重なり合ったことで、イギリスは流血を最小限に抑えつつ、君主制と議会政治の新たな均衡へと歩み出すこととなったのです。