考古学的発見

謎めいたピクト人の石碑、古代文字の証人

ローマ帝国の辺境に位置するスコットランドで、「ピクト人」と呼ばれた人々が独自の文字体系を発展させていた可能性が、最新の年代測定によって裏づけられた。その起源は紀元3世紀にまで遡るという。

謎めいたピクト人の石碑、古代文字の証人

スコットランド・ライン(Rhynie)のクロウ・ステイン(Craw Stane)と呼ばれるピクト人の石碑。

体に彩色を施した謎の民

ピクト人は古くから謎に包まれた民族とされてきた。彼らと対峙しながらもついに征服できなかったローマ人は、その姿を「暴虐で恐ろしい蛮族」と描写した。とりわけローマ人の印象に強く残っていたのが、身体全体に施された彩色(刺青)だったのだろう。

3世紀から8世紀にかけて現在のスコットランド北部および中部に勢力を誇った部族連合であるピクト人は、言語の上にも痕跡を残している。ラテン語で「彩色された者」「刺青を施した者」を意味する Picti の語根は、英語の picture(画像)やフランス語の pictural(絵画の)などに受け継がれている。

さらにピクト人は、スコットランド各地に散在する見事な彫刻石碑をも遺した。カーン・ノルマンディー大学の中世史家アルバン・ゴーティエ氏は「19世紀以来、こうした魅惑的な石碑はおよそ200基が確認されている」と述べる。石碑を飾るのは約30種類におよぶ記号群であり、アバディーン大学の研究チームがこれらの記号を刻んだ石碑の年代を放射性炭素(炭素14)年代測定法で特定することに成功。その成果は学術誌『Antiquity』に発表された。

謎めいたピクト人の石碑、古代文字の証人

スコットランド・アバディーンシャーのピクト人要塞ドゥニカエル(Dunnicaer)。提供:アバディーン大学

炭素14測定が明かした3〜4世紀の彫刻板

考古学者ゴードン・ノーブル氏が率いる「ノーザン・ピクト計画」の調査によれば、これらの図像を刻んだ彫刻板の断片5点は、紀元3〜4世紀に制作されたことが判明した。断片は、ストーンヘイヴンの南に位置する岬の上に築かれたピクト人の要塞ドゥニカエル遺跡の盛り土から採集されたものである。

謎めいたピクト人の石碑、古代文字の証人

ピクト記号の例。提供:アバディーン大学

文字なのか、記念の記号なのか

「これらの図像が初期の文字の一形態である、という研究著者らの見解は、十分にあり得ることです」と、今回の研究には関与していないゴーティエ氏は語る。実際、同時代のローマ帝国の他の辺境においても、似たような現象が生じていた。「さまざまな民族が、自らの言語を記録するために文字体系を発明したのです」。ゲルマン世界やスカンジナビアではルーン文字が、アイルランドのケルト人にはオガム文字が用いられた。「いずれも読み方が分かっている二つのアルファベットです」。

しかしピクト人の碑文は事情が異なる。それは本格的な文章というよりも、記念的な記録に近いという。「個人や出来事に結びついた名前を書き記していたのでしょう。古代エジプトのヒエログリフにおけるカルトゥーシュ(王名枠)のようなものです」と歴史家は説明する。

歴史の闇から現れたピクトの王国

長い沈黙の後、ピクト人について詳細な情報が伝えられるようになるのは、7世紀初頭に入ってからのことだった。アイルランド系やアングロサクソン系の著述家たちは、ピクト人のキリスト教への改宗や王国の存在について言及している。なかでもフォートリュー王国は、8世紀を通じて北ブリテン全土に覇権をふるったキリスト教国家として知られている。

ライン周辺では現在も発掘調査が続けられており、石碑に刻まれた記号の解読とともに、謎多きピクト人社会の実像解明が進められている。