考古学的発見

エジプト:ギリシャ・ローマの入植者たちが広く受け入れた「ミイラ化」の習慣

エジプト文化は、この国を次々と征服していった支配者たちの埋葬習慣にも深く浸透していました。カイロの南西約100キロメートルに位置するファイユーム・オアシスで発見されたミイラを飾る荘厳な肖像画は、その何よりの証拠です。宗教史学者でストラスブール・マルク・ブロック大学名誉教授のフランソワーズ・デュナン氏に、その背景について話を聞きました。

エジプト:ギリシャ・ローマの入植者たちが広く受け入れた「ミイラ化」の習慣
ファイユーム・オアシスで発見されたミイラ

後期エジプト時代には、エジプトの宗教とギリシャ・ローマの宗教が共存していました。両者の交流はどのようなものだったのでしょうか?

フランソワーズ・デュナン氏: この時代はシンクレティズム(宗教的習合)の時代であり、互いの神々が共存していました。人々は自分の必要に応じて、ギリシャの神々や土着の神々を崇拝していたのです。プトレマイオス朝のもとでは異民族間の結婚も頻繁でしたが、それでもエジプト文化は極めて力強く生き続けていました。例えば、ヘレニズム植民地であったファイユーム・オアシスの村々では、エジプトの神殿がギリシャの聖域と同じ数だけ存在していました。さらに、二つの言語が同時に教えられていた学校の文書館まで発見されているのです。

ファイユームでは、ローマ様式の肖像画で飾られた棺も発見されています。この土地の歴史は複雑なようですね。

紀元前3世紀、初代のプトレマイオス王たちはファイユームで大規模な排水工事を行い、12万ヘクタールの農地を獲得することに成功しました。その後、ギリシャ人入植者を受け入れるために村々が建設されました。紀元前305年以降、プトレマイオス朝はギリシャや小アジアから多くの傭兵を雇い入れていましたが、彼らの除隊時に帰国の旅費を支払う負担を避けるため、当局は代わりに農地の特許を与えたのです。こうしてファイユームはヘレニズム文明の中心地となりました。

ところが、ギリシャ人たちは、それまで行っていた火葬に代わって、ミイラ化というエジプトの伝統を採用するようになります。そして紀元前30年にエジプトを征服した裕福なローマ人たちも、この習慣を引き継いだのです。現存する古代の木製肖像画としては唯一の例であるファイユームの肖像画は、すべて西暦1世紀から3〜4世紀に制作されたものであり、プトレマイオス朝時代のものは一つもありません。

これらの卓越した肖像画からは、何が読み取れるのでしょうか?

まず、当時の男性も女性もミイラ化に強く惹かれていたという事実です。ギリシャ人もローマ人も、この葬送習慣を広く受け入れていたようです。顔の位置に肖像画が挿入された布帯を巻かれたミイラは、900体から1000体ほど確認されています。正確な数がつかめないのは、1888年の発見以来、密掘り業者たちが売却目的で持ち去り、その多くが現在では個人コレクションに収められているためです。

これらの肖像画は驚くほど人間味あふれるものです。エンカウスト技法(顔料を混ぜた熱した蝋で描く手法)によって、故人は非常に生き生きとした表情を与えられています。顔は総じて滑らかで、肖像画は本人が若かった頃、あるいは人生の全盛期に描かれたと推測されます。絵画の技巧は明らかにローマ的なもので、ポンペイの最高級の作品を思わせます。しかしそのローマ様式は、エジプトの神々に仕えるために使われていたのです。つまり、ローマのトーガを身にまとった故人が、アヌビスやオシリスに囲まれて描かれることが少なくありませんでした。この種の「三連作」には、壁に掛けるための紐が付いたものまで発見されており、家庭内の祭壇を飾るために使われていた可能性さえうかがえます。

これらの彩色された顔は、伝統的な葬送用マスクの代替ではなく、来世での生存のために頭部を保存することの重要性を強調する役割を果たしていました。オシリスが故人の同一性を見誤らないようにするためです。そのため名前は、肖像画だけでなく石棺や、故人に添えられる『死者の書』の呪文にも刻まれていました。いずれにせよ、この習慣は上流階級のためのものであったはずです。服装、宝石、姿勢のいずれをとっても、支配階級を想起させるものだからです。

ハルガ・オアシスのエル=デイルでは、紀元前後を中心とする9世紀にわたる5つの墓地が発掘されました。この長い期間、埋葬儀礼はどのように変化したのでしょうか?

これらのネクロポリス(墓地遺跡)のおかげで、キリスト教出現の時期を特定することができます。最初の4つの墓地では、遺体は合葬墓に納められ、故人は伝統的な技術でミイラ化されていました。石棺、マスク、神々の小像といった副葬品はエジプト宗教の特徴を備えており、当時すでに大きな存在感を示していたギリシャ文化の影響はほとんど見られません。一方、4世紀の墓地は個別の墓で構成され、故人は生前の衣服を着たまま東向きに安置され、ヤシの葉を編んで作られた十字架が添えられていました。キリスト教が広まりつつあったのです。それでも住民たちは、簡素化されたとはいえ、依然として自らをミイラ化させていました。

来世の生活、最後の審判……エジプト宗教は一神教の基礎をすでに備えていたように見えます。どう説明しますか?

古代エジプト宗教の実践と原始キリスト教の実践との間に関係がなかったとは言い切れません。この二つの宗教は、エジプトで何世紀にもわたって共存していたのですから。キリスト教が定着した4世紀末、それまで伝統的な神々の神託を求めていたエジプト人たちは、キリスト教の聖人たちへと向き直りました。しかし、これらの宗教が持つ世界観や人間観は、私にはかなり異なるものに思われます。この世での功績に対する報酬としての「天国」というキリスト教(あるいはイスラム教)の概念は、エジプトにとっては非常に馴染みの薄いものでした。エジプト人にとって望ましいのは、死後に「第二の人生」を送ること、すなわち根本的に善いものとみなされる現世の人生に類似した生活を送ることだったのです。これは伝統的なキリスト教の見解とは対照的です。

あらゆる宗教は、世界と生命の起源、死、そしてその先に何があるのかといった本質的な問いに答えようとしてきました。その答えの中には、かなり近いものに見える場合もあります。死後に何もないと説くことに甘んじた宗教はごくわずかです。ただし各宗教は、それぞれ独自の方法でこの「死後」を描写しようとしてきたのであり、時に他からイメージを借用することもありました。したがって、最後の審判というテーマがエジプトに由来している可能性も、決して否定できないのです。

本記事は、2019年4月に刊行された『サイエンス・エ・アヴニール』特別号「エジプト:永遠の発明」をもとに翻訳・再構成したものです。