歴史上の人物

ビクトリア・モントゥ――奴隷制に抗い、ハイチ独立へ挑んだ女性闘士「トヤ」

ビクトリア・モントゥ(Victoria Montou)、通称トヤ(Toya、?〜1805年)は、奴隷制に抵抗し、ハイチの独立のために戦った女性闘士です。彼女は、やがてハイチ初代皇帝となるジャン=ジャック・デサリーヌ(Jean-Jacques Dessalines)とともに武器を取りました。

プランテーションの奴隷として

当時フランス領だったサン=ドマング(現在のハイチ)。ビクトリア・モントゥは「トヤ」と呼ばれ、植民地主義者アンリ・デュクロ(Henri Duclos)のコーヒー・プランテーションで奴隷として酷使されていました。体力があり気力にあふれる彼女には、最も過酷でつらい労働が課されました。同じプランテーションで搾取されていた奴隷の中に、ジャン=ジャック・デュクロという青年がいました。当時よくあったように主人の姓を受け継いだこの人物こそ、後にハイチ皇帝となり「建国の父」と称えられるジャン=ジャック・デサリーヌその人です。デサリーヌは後年、トヤを「おば」と呼んで語っています。

二人の主人は冷酷で、暴力を厭わない男でした。トヤとジャン=ジャックは、奴隷制への同じ憎しみ、主人たちへの同じ怒り、そして反骨精神を分かち合っていました。彼より年長だったトヤは、アフリカの文化の数々を教えるだけでなく、ナイフの扱いや格闘術まで伝授します。こうして二人の間には強い絆が育まれました。しかしアンリ・デュクロは、この関係とトヤの教えが自分の安全への脅威になると判断し、二人を手放すことにします。トヤはデルジェ(Deluger)の農園へ移され、ジャン=ジャックはデサリーヌという名の黒人男性に売却されました。こうしてジャン=ジャック・デュクロは、ジャン=ジャック・デサリーヌと名乗ることになったのです。

新しい農園でも、トヤは畑で酷使され続けました。しかし気の強い彼女は、やがて約50人の奴隷たちを率いる立場に据えられます。後に皇帝の侍医となるフランス人医師ジャン=バティスト・ミランボー(Jean-Baptiste Mirambeau)は、当時の彼女と出会い、次のように記しています。
「(中略)約50人の奴隷の先頭にはトヤがいた。手には鎌を握り、肩には鍬を担ぎ、上着のベルトには藍染め用の小刀を提げていた(中略)。トヤの命令一下、ある者たちは森林伐開へ、ある者たちは耕作へ、さらに別の者たちは収穫と穀物の大籠への詰め込みへと向かった」
医師は彼女をカリスマ性と威厳を備えた存在として描き、「その指揮ぶりはまるで将軍のそれと変わらなかった」と述べています。

ハイチ革命の勃発

1791年、有名なボワ・カイマンの儀式(Bois-Caïman Ceremony)を発端としてハイチ革命が勃発しました。この儀式にはマンボ(巫女)セシル・ファティマン(Cécile Fatiman)も参加しており、その後、全島規模の蜂起と大虐殺が巻き起こります。ジャン=ジャック・デサリーヌはこの反乱に加わり、スペイン側について奴隷制とフランスに立ち向かうトゥサン・ルヴェルチュール(Toussaint Louverture)将軍の副官となりました。1794年、奴隷制を廃止したばかりのフランスのもとで戦うよう方針を転換したルヴェルチュールに従い、デサリーヌもそれに続きます。

1802年、ナポレオンは奴隷制を復活させ、トゥサン・ルヴェルチュールとその軍勢を屈服させるためハイチ遠征を開始しました。将軍は逮捕されてフランスへ流刑となり、翌年その地で亡くなります。当初デサリーヌはフランスに恭順の姿勢を見せていましたが、ほどなく支持を集め、フランス軍に対する全面蜂起を起こしてその指揮を執ることになりました。

立ち上がったトヤ

ビクトリア・モントゥもまた、島を揺るがすハイチ革命と奴隷反乱に身を投じました。元奴隷からなる小さな反乱部隊を率いた彼女は、武器を手に戦闘へ参加します。先のミランボー医師は、その様子を次のように語っています。
「トヤの指揮下にあった少数の反乱者たちは、連隊によってすぐに包囲され、捕虜となった。戦闘の中でトヤは逃走を図り、二人の兵士に追われた。彼らとトヤとの間で乱闘が起こり、一人はトヤによって重傷を負わされた。もう一人は、間に合って駆けつけた他の兵士たちの助けを借りて、なんとかトヤを捕虜にしたのである」

1804年1月、ジャン=ジャック・デサリーヌはハイチの独立を宣言しました。同年、彼は自ら皇帝として即位し、トヤを帝国の女公爵に叙します。ビクトリア・モントゥはハイチ独立の瞬間を見届けることができましたが、その恩恵を長く享受することはできませんでした。1805年、彼女の健康状態は急速に悪化します。ミランボーを呼び寄せたデサリーヌは、最善の治療を施すよう懇願しました。
「この女性は私のおばである。私自身を看病するのと同じように彼女を看護してほしい。彼女は私と同じように、畑で並んで働かされていたあの日々、すべての苦しみとすべての感情を味わってきたのだから」

しかし医師の手当てのかいもなく、ビクトリア・モントゥは1805年6月に亡くなりました。皇帝は彼女に正式な国葬を執り行わせます。葬列は皇后マリー=クレール・ボヌール(Marie-Claire Bonheur)が先導し、帝国親衛隊の准尉8人が護衛を務めたといわれています。