高桂英(?~1647年)は、中国・明王朝末期の革命家である。夫・李自成とともに明に反乱を起こし、17世紀前半には女性だけの部隊を率いて戦場に立った、歴史に名を刻む女戦士だ。
李自成との出会い
1368年以来、中国を統治してきたのは漢民族による最後の王朝――明であった。しかし16世紀末から17世紀初頭にかけて、明は深刻な財政難に見舞われる。民衆反乱の頻発、統治能力を欠く皇帝の昏庸、やがて清王朝を興すことになる女真族の台頭、さらに旱魃・疫病・飢饉の相次ぐ発生が、国家の疲弊に拍車をかけた。財政難を補うため、当局は対女真族の戦費調達などを名目に重税を課した。その過酷な税負担と飢饉こそが、各地で反乱を引き起こす火種となっていった。
高桂英はまさにそのような激動の時代に、中国北部・陝西省米脂県で生まれ育った(正確な生年は不明)。1627年、彼女は農民の出身で鍛冶職人でもあった革命家・李自成と出会う。言い伝えによれば、延安の住民を恐怖に陥れていた徒党の首領を殺害した罪で官憲に追われていた李自成を、高桂英の兄が実家にかくまったのがきっかけだったという。抑圧への反抗という同じ志で結ばれた二人は結婚し、地元の人々に武術を教える活動をともに始めた。
反乱の時代
当時の陝西省は、明王朝が敷いた重税によっていっそう悪化した疫病と飢饉に苦しんでいた。1630年、高桂英と李自成は高迎祥率いる蜂起農民の一団に身を投じる。土地の公平な分配や一部の税の廃止を掲げた二人は、たちまち同志たちの信頼を勝ち取った。高迎祥が「王」に推戴されると、李自成は「将軍」に任命され、1636年に高迎祥が死去すると王の位を継いだ。
時が経つにつれ、飢饉にあえぐ農民たちが続々と合流し、その勢力は3万人にまで膨れ上がった。彼らは官吏を襲撃しては討ち取っていく。この反乱において、夫婦の役割は次第に分かれていった。高桂英は兵員の募集・訓練を担い、何より女性だけで構成された部隊の指揮官として活躍した。その部隊には、女性士官による独自の指揮系統すら備わっていた。一方の李自成は、農民を募って軍の規模を拡大することに専念したのである。
反乱はやがて大きなうねりとなり、女真族(後の清王朝)の攻撃と相まって、明王朝崩壊の決定打となった。1644年、李自成は北京を陥落させる。捕らえられることを望まなかった最後の皇帝・崇禎帝は自ら首をつり、明はここに滅亡した。李自成は皇帝を即位し、高桂英は皇后となった。しかし、その栄光は束の間だった。翌1645年、女真族――満洲人が李自成の軍を打ち破り、戦死した李自成に代わって北京を占領、清王朝を樹立したのである。
南明の守護者として
夫を殺し王朝を奪った清に対し、未亡人となった高桂英は「最大の敵」であることを宣言する。忠誠の矛先を変えた彼女は、昨日の敵を今日の盟友とした。明の皇族の生き残りたちは中国南部へ逃れ、「南明」として政権を樹立していた。高桂英はかつて戦った相手と手を組み、共に清へ立ち向かうことを決意したのだ。
指揮官の称号を得た高桂英は、南明王朝の守護者に任じられる。彼女は戦場で数々の武勇を成し遂げ、1647年にこの世を去るまで、清王朝との戦いを指揮し続けたのである。