歴史上の人物

秦良玉:明王朝を最後まで守り抜いた中国史上唯一の女将軍

中国の武将・秦良玉(字は貞素、1574年〜1648年)は、17世紀に後の清王朝となる勢力の攻撃から明王朝を守り抜き、その名を歴史に刻んだ稀有な女性将軍である。

型破りな教育

秦良玉はミャオ族の家系に生まれ、1574年に中国中部の忠州(現在の重慶市忠県)で誕生した。1368年以来、帝国を支配してきたのは漢民族による最後の王朝・明である。万暦帝が11歳で即位してまだ2年しか経っておらず、沿岸部への海賊の襲撃は収まり、モンゴルとも和平が結ばれていたが、明王朝には財政難の影が忍び寄り始めていた。

秦良玉:明王朝を最後まで守り抜いた中国史上唯一の女将軍

時代の常識に反し、良玉の父・秦葵は、女子も男子と同じ教育を受けるべきだと考えていた。兄弟たちと同じように、良玉は歴史、孔子の著作、詩を学んだ。さらに武芸にも励み、とりわけ弓術と騎馬の腕前で頭角を現したのである。

馬千乗との結婚

1595年、21歳になった秦良玉は、石砫県の土司(首長)であり宣撫使(国境を監督する高級武官)でもあった馬千乗と結婚した。夫婦仲は円満だったようで、馬千乗はしばしば妻の助言を求めた。明帝国の南西辺境で軍閥との衝突が起きた際には、良玉も戦場へ同行している。

一方、明王朝の財政難は深刻化し、中央政府は貿易と農業への課税強化に踏み切った。これが大きな不満を呼び、各地で反乱が相次いだ。1599年には南方の播州で反乱が勃発。馬千乗は3,000騎を率いて出陣し、良玉もさらに500人の兵を率いて従った。夫妻は力を合わせて反乱を鎮圧したのである。

しかし1613年、馬千乗は宮廷の有力宦官を怒らせた罪で逮捕され、獄中で亡くなった。良玉はその後を継ぎ、石砫県の宣撫使となった。彼女が指揮する部隊は、やがて「白桿兵」として広く知られることになる。

反乱との戦い

1620年、万暦帝が崩御し、息子の泰昌帝が即位するが、在位わずか1か月足らずで38歳の若さで急死した(毒殺の可能性も指摘されている)。その後を継いだのは15歳の天啓帝であったが、統治の才能に欠けていた。この傀儡皇帝の治世下でも反乱は止まず、すでに1618年には満洲族のヌルハチが女真(ジューチェン)諸部族を統一して明に反旗を翻していた。ヌルハチは次第に領土を拡大し、中国北部の遼東地方の都市を次々と征服していった。1620年には、秦良玉の兄・秦邦屏がヌルハチ軍との戦いで戦死した。

戦費を賄うため朝廷は再び重税を敷き、新たな蜂起を招く結果となった。1623年、良玉は四川と貴州で起こった奢安の乱の鎮圧を支援。翌年にはもう一人の兄・秦民屏も反乱軍との戦いで命を落とした。この反乱は8年間続き、1629年の夏にようやく平定された。その頃には天啓帝はすでに2年前に亡くなっており、16歳の弟が即位していた。崇禎帝は先代が残した破滅的な状況の立て直しに奔走したが、同時に深刻な干ばつと飢饉にも直面することになる。

明王朝の守護者

1630年、ヌルハチの子で後継者のホンタイジが明の首都・北京に迫った。秦良玉は軍を率いて出陣し、複数の都市を奪還して北京への脅威を退けた。その勇気と手腕に感銘を受けた崇禎帝は、彼女を讃える四つの詩を献じたという。北京に入城した際には、彼女と白桿兵の名声を聞きつけた群衆が集まり、その姿を見ようと押し寄せたほどだった。白桿兵は訓練を積んだ精鋭であり、高い戦闘力だけでなく優れた規律を備え、勝利の後も略奪や民衆への乱暴狼藉を行わないことで知られていた。

1634年、民衆反乱の指導者・張献忠の軍が四川に侵入すると、良玉は息子の馬祥麟と共に部隊を率いてこれを撃退した。1640年には羅汝才率いる新たな反乱も鎮圧している。しかし、明王朝を守ろうとする彼女の奮戦も届かず、1644年、李自成率いる農民反乱軍が北京に入城し、崇禎帝は捕らわれる前に自ら命を絶った。

明王朝の終焉

李自成は皇帝を自称したが、まもなく満洲人によって打倒され、そこに清王朝が成立する。秦良玉は清に対して抵抗を続ける南明の防衛に身を捧げた。その忠義への報酬として、南明の隆武帝は良玉に爵位を授けるとともに、皇太子の守護者(太子太保)および国防を統べる将軍の称号を与えた。

晩年の秦良玉は石砫地方の一部を支配下に置き、土地を耕して自給自足の体制を築き、避難民たちを養った。彼女がもたらした安定により、およそ10万人の避難民が石砫に定住できたと言われる。そして1648年、73歳あるいは74歳でこの世を去ったのである。