歴史上の人物

「ペチコートを着た悪魔」アルフォンシーナ・ストラーダ――ジロ・デ・イタリアを完走した唯一の女性

女性自転車競技の先駆者、アルフォンシーナ・ストラーダ(1891年〜1959年)。1924年、男性だけのペロトンの中でジロ・デ・イタリアを完走しました。三大グランツール(ツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリア、ブエルタ・ア・エスパーニャ)に公式出場を果たした、史上唯一の女性です。

「自由の乗り物」との出会い

「ペチコートを着た悪魔」アルフォンシーナ・ストラーダ――ジロ・デ・イタリアを完走した唯一の女性

1891年3月16日、北イタリアのカステルフランコ・エミーリアに生まれたアルフォンシーナ・モリーニ。その出自や幼少期については、当時の報道があまりにもロマンチックに脚色したため、事実と作り話の区別が難しくなっています。ただ確かなのは、彼女が質素ながら大家族の中で育ったということです。母は看護師、父は農夫で、兄弟姉妹は8人、あるいは10人いたとも伝えられます。伝説によれば、子どもたちは24人も住める粗末な家で、ニワトリに囲まれて成長したといいます。

アルフォンシーナが10歳のとき、父はニワトリ数羽と引き換えに、村の医者の古い自転車を手に入れます。男勝りのおてんば娘として、兄弟やその友人たちと駆け回っていた少女にとって、それは一目惚れであり、大冒険の始まりでした。彼女が「自由の乗り物」と呼んだ自転車にまたがり、アルフォンシーナは田園地帯を駆け巡ります。両親がミサに行っていると思っている日曜日でさえも。

当時、偏見や非難がありながらも、自転車は移動の自由と独立性をもたらすものとして、ますます多くの女性を魅了していました。アメリカの参政権活動家スーザン・B・アンソニーは1896年、こう語っています。「自転車は、世界の何よりも女性の解放に貢献してきた」。まだ幼かったアルフォンシーナも、この新しい乗り物に、限界を押し広げ固定観念を打ち破るチャンスを見出していました。当初は家族にも受け入れられていた趣味でしたが、やがて非難され、ついには「スキャンダラス」だとみなされるまでになります。そうして彼女につけられたあだ名こそ、「ペチコートを着た悪魔」でした。

最初のレース

そんなことで挫けるような少女ではありませんでした。13歳のとき、両親を失望させながらも、彼女は男子レースを含む競争への出場を決意します。たちまち最初のレースに優勝――賞品はなんと生きた豚――すると、2つ目のレースでも勝利を収めます。女子競争を席巻する一方で、男子選手との対戦も厭わず、勝利を重ねるごとに名声は高まっていきました。1909年には、イタリア連盟からロシアでのエキシビションレースへの招待を受け、皇帝ニコライ2世の前で走ったともいわれています。そして1911年、20歳になったアルフォンシーナは、1時間で37.192kmを走り、女子の記録を塗り替えたのです。

しかし成功を収めてもなお、女性のスポーツが非難されていた時代において、彼女の振る舞いはしばしば「スキャンダラス」視され、両親は何とか自転車を諦めさせようと画策します。そこへ現れたのが、溶接工のルイージ・ストラーダという求婚者でした。両親は、結婚さえすれば自転車をガレージにしまい込むだろうと期待し、縁談を後押しします。こうして1915年、アルフォンシーナ・モリーニはアルフォンシーナ・ストラーダとなりました。ところが両親の思惑に反して、ルイージに妻の情熱を妨げる気は毛頭ありませんでした。それどころか、結婚祝いとして自らの手で組み上げた自転車を贈り、やがて彼女のコーチにもなるのです。

夫妻が住まいを構えたミラノで、アルフォンシーナ・ストラーダは本格的なトレーニングに励み、イタリア、フランス、ルクセンブルクのレースに、主に男子レースへ出場します。1917年には、難易度と名声を兼ね備えたロンバルディア一周に挑戦。スタートラインに並んだ54人のうち、フィニッシュできたのはわずか31人。アルフォンシーナはその一人で、29位でゴールしました。翌年は21位に入っています。

ジロ・デ・イタリア

1924年のジロ・デ・イタリアは、危機に見舞われていました。レースディレクターのエミリオ・コロンボと、出場報酬を求める有力プロチームとの対立です。コロンボは、レースを個人登録のランナーにも開放することを決めます。アルフォンシーナはこの好機を逃さず、90人の参加者の一人としてエントリー。参加者名簿には「アルフォンスィーン(Alfonsin)」の名で記されました。こうして彼女は、三大グランツールに公式出場した最初の、そして今日に至るまで唯一の女性となったのです。同時にステージレースに挑戦した初の女性でもあり、多くの人々は1ステージすら持たないだろうと考えていました。

しかしアルフォンシーナはたちまちその予想を覆し、レースに自分の居場所があることを証明してみせます。序盤のステージでは多くの選手を抑えてフィニッシュし、観衆の心を一気につかみました。ゴール後、観衆が彼女を担ぎ上げて称えたこともあったほどです。新聞『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙上で、エミリオ・コロンボはこう書いています。「わずか2ステージで、この小柄な娘の人気は、欠場した全チャンピオンを合わせたものよりも大きくなった」

ところが、悪天候に見舞われた第7ステージが、彼女の順位を奪うことになります。転倒してハンドルを折り、膝を負傷したアルフォンシーナは、満身創痍のまま次のステージを制限時間外で走り切りました。すでに観衆の寵児となっていた彼女を、コロンボは完全に切り捨てるのではなく、レースのメディア的成功のためにも続行を許可し、費用まで負担します。ただし、順位からは外されることになりました。

以降のステージでもアルフォンシーナの人気は揺るぎなく、時にはステージ優勝者と同等の声援を浴びることもありました。他の出場者とともにスタートは切るものの、ランキングには姿を見せません。そして最終的に、スタートした90人中わずか30人しか完走できなかった過酷なレースを、彼女は走り抜いたのです。雪辱を誓ったアルフォンシーナは翌年の出場を希望しますが、これは拒否されました。プロチームとの対立が収束した今、コロンボがレースのイメージ回復のために彼女を必要とする理由は、もはやなかったのです。以後、女性がこの舞台に立つことは二度とありませんでした。

キャリアの終焉

アルフォンシーナ・ストラーダはその後も競争やエキシビションレースに出走し続けます。現役時代、女子レースではすべてに優勝し、さらに男子選手を破って37勝を挙げました。1946年に夫ルイージに先立たれると、4年後に引退自転車選手のカルロ・メッソリと再婚。二人はミラノで自転車の販売・修理店を開きます。59歳になったアルフォンシーナは、店を通じて、そして毎日の自転車移動を通じて、情熱との絆を保ち続けました。しかし7年後、再び未亡人となった彼女の人生は、孤独で辛いものになっていきます。

「ペチコートを着た悪魔」アルフォンシーナ・ストラーダ――ジロ・デ・イタリアを完走した唯一の女性

自転車に乗り続ける体力が尽きかけると、アルフォンシーナは栄光の日々のメダルやトロフィーを売り払い、オートバイを購入。以降はそれで自転車レースの観客席へと向かうようになりました。1959年9月、68歳のアルフォンシーナはオートバイで「トレ・ヴァッリ・ヴァレジーネ」の観戦に向かいます。そのレースを見て、また自転車に乗りたいという気持ちが湧き上がった彼女は、帰宅後、管理人にそう打ち明けました。そしてオートバイを店に返しに行き、愛用の自転車を受け取ろうとした、その瞬間のことです。車体が横転し、彼女の上に倒れ込んだのです。アルフォンシーナ・ストラーダは、病院に到着する前に心臓発作で息を引き取りました。