明治時代の日本を代表する女性解放運動の先駆者・福田英子(1865〜1927)。彼女は女性の権利を擁護する雑誌を創刊し、平等と社会正義の実現に生涯を捧げました。
政治への志
福田英子は、1865年10月5日、教育者の母・影山梅子と武士の父・影山堅の娘として、影山英子という名で岡山に生まれました。幼少期は明治維新直後、日本が封建社会から西洋式の近代産業国家へと大きく転換しつつあった、政治・社会・文化の激動期と重なります。
教師だった母は、英子をよく自分の勤める学校へ連れて行きました。成長するにつれ、英子は性別役割に従うことを拒むなど、反骨精神を見せるようになります。彼女自身、後年に自分の子ども時代を「おてんば」だったと振り返っています。聡明で活発な英子は、幼い頃から日本・中国・西洋の政治思想に触れて育ち、友人の小林楠雄から借りたジャンヌ・ダルクの伝記に深く感銘を受け、その姿を自らの模範として憧れるようになりました。
自由民権運動へ
1882年、17歳になった英子は、岸田俊子の演説を聞きます。俊子は英子のわずか2歳上のフェミニストで、元は昭憲皇太后に仕える女官でしたが、その地位を捨て、日本の女性の権利と家父長的な家族制度への抗いに身を捧げていた人物です。この演説に強い衝撃を受けた英子は、民主主義と平等を掲げる自由民権運動に参加することを決意します。
1883年、英子は母とともに、働く母親たちの子どもを中心とした女子だけの私塾を開設しました。しかし母娘がそこで教えたのはわずか1年間。政府は自由民権運動の高まりと女性たちの自由への志向を警戒し、1884年に学校の閉鎖を命じたのです。それでも状況を変えたいという意志を曲げなかった英子は、東京へ移ります。
「大阪事件」
東京で英子は、自由民権運動から分かれた自由党のメンバー、大井憲太郎と出会います。当時同グループは、1885年に中国(清)と日本の間で結ばれ、朝鮮における両国の影響力を定めた天津条約の撤回を目指していました。彼らは朝鮮の改革派・革命派の運動を支援し、ひいては日本国内にも深い変革をもたらそうとしていたのです。
英子は朝鮮の革命運動のための資金集めを手伝いました。しかし当時の日本は不況のさなかにあり、資金集めは困難を極め、グループの一部は強盗に手を染めるまでになります。困難や内部対立を乗り越え、グループは資金と銃器・爆弾といった武器を揃え、長崎へ移動して朝鮮へ渡ろうとしました。ところが、大坂周辺で起きた強盗事件を捜査していた警察の手が及び、出発前に運動のメンバー約130人が逮捕され、武器の不法所持および内乱扇動の容疑をかけられたのです。
後にこの事件への関与を悔いたと語る英子も、逮捕された130人の一人でした。裁判は広く報道され、新聞は彼女を「日本のジャンヌ・ダルク」と紹介します。懲役18ヶ月の判決を受けましたが、10ヶ月後に釈放され、その出獄は人々の熱狂的な歓迎を受けました。
『われら半生記』
その後、英子は大井憲太郎と関係を持ち、息子が生まれますが、二人の仲は長く続きませんでした。幼い子を抱えた英子のもとには、支えようとする家族が東京へ移り住みます。家族の助けを得て女子のための職業学校を開きましたが、父・叔母・兄の相次ぐ死により、経営を続けることができませんでした。1892年、英子は福田友作と結婚し、三人の息子をもうけます。しかし夫は病に倒れ、1900年に亡くなり、英子は四人の子どもを持つ未亡人となりました。
翌年、英子は篤志家の支援を受けて、新しい女子実業学校を設立します。その目的は、貧しい女性たちに職業上・商業上の技能を授け、経済的自立への道を開くことにありました。この頃、戦争に反対し男女平等を訴えていた作家・社会主義者の堺利彦と出会い、社会主義思想へと導かれます。利彦らが創刊した社会主義紙「平民新聞」に英子も寄稿し、フェミニズムの立場からの発信を続けました。
1904年、英子は自伝『われら半生記』を出版し、大きな成功を収めます。これは日本で初めて女性が著した自伝であり、同時代の政治生活を今に伝える極めて重要な証言となりました。
『世界婦人』創刊
1907年、英子はパートナーである石川三四郎とともに月刊誌『世界婦人』を創刊します。女性読者に向けられたこの雑誌は、とりわけ女性の権利の擁護に力を注ぎました。英子によれば、その狙いは「女性の才能と天職を見出し、その持ち前の才能を基盤とした改革運動へ参加するよう促すこと」にあったといいます。裁縫や詩に関する記事と並んで、『世界婦人』は女性の解放や参政権を訴え、女性の政治集会出席禁止にも異を唱えました。さらに、貯水池建設のために土地と住居を奪われた栃木県谷中村の住民を支援し、資金を募って経済的援助の手を差し伸べました。
しかしその頃から、日本政府は国の改革を目指す社会主義者グループへの弾圧を次第に強めていきます。「平民新聞」は廃刊に追い込まれ、堺利彦は投獄されました。英子の雑誌もこの弾圧の波に見舞われ、罰金や検閲に苦しめられます。そして石川三四郎までもが逮捕されると、英子は1909年、『世界婦人』の廃刊を余儀なくされたのです。
「婦人問題」と晩年
これらの出来事の後、英子は困窮し、病を得て苦難の時を過ごします。それでも筆を執り続け、フェミニスト文芸誌「青鞜」(伊藤野枝も寄稿していた)に論説「婦人問題の解決」を発表しました。この論考は女性の権利にとどまらず、階級や資本主義制度の問題にも目を向けたもので、英子にとってジェンダーによる不平等と階級による不平等は、本質的に結びついているものでした。「女性の解放とともに、男性の解放もまた成し遂げられねばならない」,彼女はそう確信していました。あまりに大胆な内容だったため、編集部内で激しい議論を巻き起こし、掲載号は全面発禁処分となったのです。
福田英子は1927年5月、61歳でこの世を去りました。生誕100年にあたる1965年には、日本の女性運動における彼女の多大な功績を讃え、活動家たちによって岡山に記念碑が建立されました。