歴史上の人物

ハンナ・アーレント――「悪の陳腐さ」を問い続けた20世紀の政治思想家

ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年~1975年)は、ドイツ出身のユダヤ系アメリカ人の政治理論家です。全体主義の起源と構造に関する研究で世界的に知られ、とりわけナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を題材にした著書『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(1963年)は、20世紀思想史に残る金字塔として評価されています。

ハイデガーとの出会いと哲学の出発点

1906年10月14日、ハンナー・アーレントはドイツ・ハノーファーにおいて、マルタ・コーンとパウル・アーレントの娘としてユダヤ人家庭に生まれました。幼少期をケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)とベルリンで過ごしますが、1913年に父親を梅毒のため亡くしています。

1924年、彼女はマールブルク大学、フライブルク大学、ハイデルベルク大学で哲学・神学・文献学を学び始めました。その類まれな知性と型破りな思考は早くから注目を集めます。1925年には、当時17歳年上だった教師マルティン・ハイデガーと出会い、深い敬慕の念を抱きます。二人はやがて恋愛関係に至りましたが、ハンナはこの関係に自ら終止符を打ち、学業を続けるためにフライブルクへ移ります。そこでフッサールに師事した後、カール・ヤスパースの指導を受けて、『アウグスティヌスにおける愛の概念』をテーマとした博士論文を執筆しました。

亡命の日々と全体主義研究

1929年、アーレントは学生時代に出会った若き哲学者ギュンター・シュテルスと結婚しますが、1937年に離婚しています。ユダヤ人であったためドイツの大学で教職に就くことができなかった彼女は、反ユダヤ主義とそのプロパガンダに関する研究を進めるうちにゲシュタポの尋問を受けることになります。1933年、ナチス政権の成立を受け、ハンナはフランスへ移住し、ナチズムから逃れる難民の受け入れ支援や、ユダヤ人青年のパレスチナ移住の助けに尽力しました。

1940年には、ドイツ出身の哲学者で難民だったハインリヒ・ブリュヒャーと再婚します。しかし同年、ヒトラー軍のフランス侵攻が迫ると、彼女はポルトガル経由での脱出を余儀なくされ、1941年にアメリカへ渡航しました。

ニューヨークに到着した当初、ハンナは無一文の状態で、家政婦として働きながら生計を立て、いくつかの新聞社にも寄稿していました。戦後は一時ドイツに戻り、ユダヤ人生存者を支援する団体の活動にも携わっています。1951年にアメリカ国籍を取得すると、コロンビア大学、プリンストン大学、バークレー校など複数の大学で政治哲学の講義を担当する一方、精力的な著作活動を展開しました。

彼女の思索は、革命、全体主義、文化、近代性、伝統、自由といった政治思想の根幹に関わる概念を幅広く扱っています。主な著作としては、1951年の『全体主義の起源』、1958年の『人間の条件』、1961年の『文化の危機』、そして1963年の『革命について』などが挙げられます。

『エルサレムのアイヒマン』――悪の陳腐さという衝撃

1960年、ハンナ・アーレントは約10ヶ月にわたり、エルサレムで行われたアドルフ・アイヒマンの裁判を取材しました。アイヒマンはナチス党員であり、「最終的解決」の物流を担った第三帝国の高官でした。彼女は『ニューヨーカー』誌に長編記事を連載し、その後まとめたものが『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』として出版されます。

同書の中でアーレントは、アイヒマンを特別な反ユダヤ主義者でも狂人でもない、ごく普通の「命令に従う男」として描き出し、悪がいかに凡庸な人間の行為から生まれうるかというメカニズムを分析しました。さらに、ナチスとの協力をめぐるユダヤ人評議会の態度についても批判的な言及を行います。当時、これらの見解は誤解を招き、大きな論争を巻き起こしました。ハンナ自身も周囲からの非難や疎外に苦しみ、家族との関係にも亀裂が生じたといわれています。この時期の彼女の姿は、マルグレーテ・フォン・トロッタ監督の映画『ハンナ・アーレント』(2012年)でも描かれています。

晩年

1963年、シカゴ大学の政治学講座の主任教授に就任し、1967年にはニューヨークのニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチの教授に就任しました。ハンナ・アーレントは1975年12月4日、ニューヨークにて69歳でこの世を去りました。全体主義への警戒と、公共性ある政治の再建という彼女の思想的遺産は、今日なお世界中で読み継がれています。