デイジー・リー・ガットソン・ベイツ(Daisy Lee Gatson Bates、1914年~1999年)は、アメリカのジャーナリスト、編集者、講演者であり、公民権活動家としても名を残した人物です。
※本記事には、性的暴力に言及する記述が含まれています。
殺人犯が罰せられなかった衝撃的な過去
スージーとオール・スミス夫妻の養女として育ったデイジー・リー・ガットソン・ベイツは、1914年11月11日、アメリカ合衆国アーカンソー州南部の小さな町ハティグで生まれました。当初は養親が実の父母ではないことを知らずに育ちましたが、幼い頃に、実の母親が地元の白人男性3人によって暴行され殺害されたという事実を知ります。さらに、その殺人犯たちが誰一人として処罰されなかったという現実は、彼女の心に消えることのない怒りを刻み込みました。
15歳のとき、デイジーは保険外交員のルシャス・クリストファー・ベイツと出会います。数年の交際を経て、二人は1942年3月4日に結婚し、アーカンソー州リトルロックへ移り住みました。移住後まもなく、デイジーは全米黒人地位向上協会(NAACP)のリトルロック支部に加わります。これは父親もかつて所属していた組織でした。1952年、34歳のときにアーカンソー州支部の会長に就任し、運動の最前線で活躍。1970年には全国評議会のメンバーにも選ばれました。
新聞「アーカンソー・ステート・プレス」の創刊
夫婦は共通の夢であった新聞社の経営に挑戦します。印刷機をレンタルし、州全域を対象とする週刊紙「アーカンソー・ステート・プレス」を創刊しました。毎週火曜日に発行される8ページ構成の新聞で、創刊号は1943年5月9日に世に出ています。信念に基づいた闘志あふれる紙面づくりを掲げた同紙は、公民権に関する記事や、アーカンソー州で活躍する黒人たちの功績を紹介する記事を頻繁に掲載しました。やがて同紙は公民権の熱心な擁護者となり、とりわけ学校における人種隔離政策を鋭く批判していきました。
リトルロック・ナインとの闘い
1957年、「リトルロック・ナイン」と呼ばれる歴史的な危機が勃発します。法律により学校の人種隔離撤廃が義務付けられたリトルロックでは、それまで白人生徒のみが通っていた学校に、9人の黒人生徒が入学することになりました。しかし、オーヴァル・フォーバス州知事は州兵に対し、黒人生徒の登校を阻止するよう命令。校門前では暴力的な事態が発生し、当局の目の前で混乱が広がりました。
この違法な決定に対し、アイゼンハワー大統領はフォーバス知事から州兵の指揮権を取り上げ、連邦政府の管理下に置きました。9人の生徒それぞれには安全確保のための兵士が付き添うことになります。この危機を通じて、デイジー・ベイツは9人の生徒に同行して助言を与え、登校の手配を行う役割を担うよう選ばれました。この際、彼女はNAACPのメンバー数名とともに一時的に逮捕されています。また、この一件により同紙は広告収入を失い、経営が立ち行かなくなり、1959年10月29日の号をもって廃刊となりました。
回想録『リトルロックの長い影』と晩年の活動
1960年、デイジー・ベイツはニューヨークへ移り、回想録『リトルロックの長い影』を執筆しました。その後ワシントンD.C.に拠点を移し、民主党のために働きます。リンドン・B・ジョンソン大統領政権下では、貧困対策プログラムにも関与しました。1965年に心臓発作を起こすとリトルロックへ戻り、1968年にはアーカンソー州の農村コミュニティであるミッチェルビルへ移住します。
そこで彼女は、新しい水道管の整備、道路の舗装、上水道システムの導入、コミュニティセンターの建設といったプログラムを実施し、地域住民の生活の質向上に尽力しました。1980年に夫が亡くなった後、デイジーは「アーカンソー・ステート・プレス」を復刊させ、1987年に売却するまで経営を続け、その後も顧問として新聞に関わり続けました。
デイジー・ベイツは1999年11月4日、リトルロックでこの世を去りました。