歴史上の人物

与謝野晶子——日本初のフェミニスト詩人の生涯と功績

日本の詩人・与謝野晶子(1878年~1942年)は、女性の官能性を大胆に、しかし繊細に歌い上げるとともに、フェミニズムと平和主義の立場を鮮明に示す作品を数多く発表しました。彼女は日本における最初期のフェミニストの一人として、今日も高く評価されています。

与謝野晶子——日本初のフェミニスト詩人の生涯と功績

読書に情熱を注いだ少女

与謝野晶子は、鳳つやと鳳宗七の三番目の子として、1878年12月7日、大阪府南部の堺市に生まれました。当時の日本は、約200年続いた鎖国の終焉と封建制度の崩壊という大きな転換期、いわゆる明治時代を迎えていました。両親は老舗の菓子店を営んでおり、晶子は学校に通いながら家業を手伝うこともありましたが、その一方で文学や音楽に出会います。

少女時代の晶子は、古典から近代作品まで幅広い日本文学に熱中しました。学校では紫式部の『源氏物語』や清少納言の著作など、11世紀の女流作家による傑作を読みふけり、兄が所蔵していた『文學界』などの小説や文芸雑誌にも親しみました。16歳で卒業すると学業を離れて家業を手伝うようになりますが、空いた時間には執筆、とりわけ詩歌の創作に打ち込みました。

詩人としての出発

与謝野晶子は、短歌や長歌を含む和歌のジャンルで創作を始めました。20歳頃から、愛読していた文芸雑誌に自らの歌を投稿するようになり、歌会への参加も重ねます。そして1900年、そうした機縁の中で詩人・与謝野鉄幹と出会いました。二人はたちまち恋に落ち、やがて結婚し、後に12人の子供に恵まれました。

鉄幹は文芸誌『明星』を発行し、晶子はそこで初めて短歌を発表します。1901年、23歳の若さで処女歌集『乱れ髪』を出版すると、華々しい成功を収めました。大胆でありながら繊細な筆致で女性の官能性を謳い上げたこの歌集は、保守派の激しい非難を浴びる一方、文学界からは高い評価を受けました。

夏の歌
夏は新しい歓びとともに私を驚かせる……
ああ、夏よ……太陽は永遠の酔いどれ
甘美な酒の出口へと、いきなり扉を開ける……
夏よ! あなたは光と熱と薫りを投げかけ
さまざまな色彩を映し出す……
誘惑的な瓶の前で、人々を誘惑する。

命を懸けて戦うな——「君死にたまうこと勿れ」

1904年、日露戦争が始まると、晶子の弟・忠助(当時24歳)が出征することになりました。平和主義者であった晶子は、夫の雑誌に「君死にたまふことなかれ」と題する長編の詩を発表します。詩の中で彼女は弟へ呼びかけ、戦場で死ぬのではなく、身ごもった妻や両親のもとへ帰り、家業を再開してほしいと訴えました。さらに、自らは戦場へ赴かない天皇への批判も込められており、この作品は国粋主義者たちの怒りを買うこととなりました。

「君死にたまうこと勿れ」
ああ弟弟よ、泣くぞ君を
死ぬべきではない
末の弟妹のため
父母の寵児であるお前
剣を授かり
人を殺す術を仕込まれたのか
二十四まで育てられたのは
殺せ、死ねと教えられるためだったのか

欧州への旅

1911年、与謝野晶子は、平塚雷鳥、安茂喜代子、物集和子、木内錠子、中野初子ら女性たちによって創刊されたフェミニズム文芸誌『青鞜』(その名は「才媛」を意味する言葉に由来します)の後援者となり、詩を寄稿しました。その後、伊藤野枝や福田英子といった女性活動家たちも同人として加わっていきます。

1912年、晶子は夫の渡仏に同行し、数ヶ月間パリに滞在しました。旅の様子を連載形式で発表し、後に行紀としてまとめました。パリ滞在の折にはイギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダも訪問しています。とりわけイギリスでは、女性参政権を求めるサフラジェットたちの運動を目の当たりにしました。

「着物姿でパリの街を歩くと、どこへ行っても祭りの見世物のように注目を集めてしまう。……訪問や観劇のとき以外は、できるだけ洋装するようにしているのだが、コルセットにまだ慣れていないため、実に苦痛でならない。
……
婦人参政権運動はいくつもの複雑な要因が重なってイギリスで起こったが、私にとって最も重要なのは、化粧に関心を向けるパリの女性たちとは異なり、ここイギリスでは女性教育の重要性とその普及について長い間考えられてきたことにあるように思われる。……参政権運動で最も急進的な女性たちは、男でも今日思い及ばないことを敢えて行い、指導者たちを驚かせている。それでもなお、彼女たちの主張の正当性を否定することは難しい。」
(Claire Dodane による仏訳より)

文化学院の設立

1914年、行紀『パリより』の中で、与謝野晶子はヨーロッパでの体験を糧に、すでに固まりつつあったフェミニズムへの思いを一層深めていきます。女性の参政権、教育、経済的自立への揺るぎない支持を表明しました。同時期には詩歌の指導や講演活動を続けながら創作を重ね、歌集を発表。生涯でおよそ5万首の短歌を詠み、『源氏物語』の現代語訳にも取り組みました。

1921年、晶子は夫、建築家の西村伊作、画家の石井柏亭とともに、男女共学の私立学校「文化学院」を創立しました。教育における男女平等の原則に強い信念を抱いていた彼女は、男子生徒と女子生徒の双方に文学を教えました。

与謝野晶子は1942年5月29日、63歳でこの世を去りました。彼女は日本初のフェミニストの一人として、また近代日本を代表する女性詩人として記憶されています。

フォンテーヌブローの森

秋の歌が悲しく優しく響きわたる
白樺とブナの深い森の奥で。
その歌声に耳を傾けながら、私たちは語り合うだろう
静かに……静かに……

あれは色褪せた赤い日本の漆か
引き裂かれた金色の木の葉なのか
風も吹かないのに、葉は舞い落ちる
君の着物に落ちても、振り払わないで
小さな白い蝶も、木の葉のように軽やかに飛び降りてくる
紫色の尖った草の上、地面へと降り立つ
草は震えている……

眠っているのか……夏の初日に舞った蝶よ、眠っているのか
疲れたから眠っているのか
私たちは狭い道を歩きながら
また優しく、穏やかに語り合う……
ああ、岩の下には泉が隠れて
「コロ! コロ!」と歌っている……なんと優しい調べ!
泉の水は歌っている、きっと私たちのためなのだ……
友よ!……もう何も話さないで!